2006年2月27日 (月)

オリンピック

今、オリンピックを見るという行為は、アメリカを見ることだ。

サッカーのワールドカップがアメリカで開催されたとき、アメリカ人は選手ですら、まだサッカーのルールを知らない人たちがいたほどの浸透度で、にも拘らず、急造の選手たちが大活躍した。地元ロス開催の五輪で見せた体操のレットンや、バレーボールのハイマンの様なスターをも作ってしまう。バレーボールチームは、五輪後解散し、ハイマンは日本のダイエーに移籍し活躍するも試合中に倒れて急死した。

苦手の種目もアメリカナイズされ、いつの間にか、アメリカの祭典にだんだんとなっていくのも無理からぬことかもしれない。

スポーツは、そもそもが娯楽であり消費行為だ。ドーピングすれすれで身体を壊しつつも競う。いけにえたちの、たとえば黒人のハイマンがどういう経緯でロス五輪の英雄となり、日本に流れてきて、死ぬという顛末になったのかを考えるまでもなく、ルーマニアの妖精コマネチが、国王の要請に抗えなかった事実などの例を挙げるまでも無く、あらゆるスポーツは、唯一の主権国家アメリカの主権を見せられていくための大会となっていくもののはずだ。

それでも、そこでのアメリカン人を見てしまう。レットンの最後の陽気でアメリカンな跳馬の演技にビックリしてしまう。

バカ万歳のリンゼイ・ジャコベリス(スノーボード・クロス)の奇矯に見入ってしまう。

バレエの国のロシアに、媚丸出しの様なサービス・スマイルでアピールして、いつも金メダルさらっていた女子フィギュア・シングルの選手たちに圧倒されてしまう。

アメリカ。

『M★A★S★H』というテレビシリーズ(映画化もされた)は、朝鮮戦争の最中に、兵隊たちがバカを繰り広げる話で、警察内のおバカさんを描く『クワイヤ・ボーイズ』なんてのもあったが、日本ではどうしても『神聖喜劇』の様な、(戦争に参加している以上はその)加害責任をまず意識した上で、物語を語らなければ、バカだけでは非難される。

アメリカ化を食い止めたいならば、逆に、それを喜んでしまう自分の姿を認めて見つめる作業からはじめた方がいいのではないか。

オリンピックを見てのこの胸騒ぎはナンなのか。

「国」という枠組みを超えての考え方は果たして出来るのか。

スラローム(回転)の佐々木明は天才だから、国がどうこうなどはあまり考えなくとも競技能力をアップできる。富井、海和、岡部、木村とこの種目の日本はいつもかなりのエリートを育てたはずなのに勝てずに来た。それは1人のヒーローでしかなく、チーム力としての厚みは無かった。

今回は、2回目で果敢に攻めた、生きのいい22歳の湯浅がいて、中核として引っ張る国際派の24歳佐々木がいて、ポール不通過となるも必死に戻って、2回目(最下位の62番スタート)に繋げた26歳、生田がいて、復活したベテラン28歳の皆川がいた。

この四人の層の厚さが、全体として刺激しあって、実力を世界レベルに持っていっているのが分かる。佐々木は、そういう事は関係なしに世界人として戦えるような男だが、こんな選手は、特に日本においては2世紀に1人ぐらいのものだろう。

だから「国」という枠組みのチーム内での力を絡めての、実力の高めあいを、ただ1人がいきなり世界と勝負する前の環境として必要なのは、「国」という考え方がまずあるというしがらみから人間はそうそう逃れられないという事ではないのか。

と、その時、その「国」の行き着く姿とは、アメリカ的な支配と統括と君臨を目指すものなのではないか。

オリンピックを見る危険は、戦争映画を見る危険に似ている。

その上で、明かすけれども、オレの去年の日本映画ベストテンの1位は『男たちの大和』だ。

危険を分かったところで、オリンピックなしに生きられるほど、「消費」国家に生きるものが、後戻りできるのか。口先で反戦や反米や、すなわち反オリンピック、反スポーツ、反娯楽を言うのは言える。いや、皆が言っている。「言うだけオリンピック」が開催されるほどに言っている。

言うだけスポーツ、言うだけ娯楽なのかも知れぬ。

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2006年2月23日 (木)

安藤美姫ティ

スピードスケートは二回滑って合計タイムで競う競技だ。一回目で三位だった岡崎朋美は、二回目で抜かれて四位となりメダルを逃した。

アウトとインの差があるものの、順位が変わるということは、さほどの差が選手間にないともいえる。

ところが、同じように二回合計点での勝負であるはずなのに、ジャンプの場合は、逆転可能だとか何とかいっても、何故か、そのままの順位がそのまま点差を開いて競技終了となる場合が多い。

あれほどに風の微妙の差で以って運不運があるといわれていても、つまり、もう何回やってもその日は、強いやつが強く、弱いやつが弱い。

そしてその強い中でも飛び切りの実力と強運が伴った強い選手は、紛れもなく他の選手と全く違う世界を飛んでいく。別次元へワープしたような瞬間を見せ付ける。

アルベールビルのラージでは、ニエミネンというニッカネン以来のフィンランドの化け物が、二本とも120㍍をそろえて金を取るが、二~四位は、それぞれ1回目に120・5,117・5,113・5を飛んだヘルバルト、クッティン、原田雅彦が116・5.112、116㍍を飛び、五位のイジ・パルマ(2回目106㍍)以下を大きく引き離して、別の世界を飛んでいた。

四人だけが違う世界にいる。

ジャンプを見る魅力はそこにあるといってもいい。そういう人物が1人も現れない大会もあるがその時は面白くない。ひとりでも現れたとき、それを見るとすっきりするし、なかなかその体験は表現しようがない。スポーツ独特のものがある。つくり物ではないハプニングを見せられている。しかし人間が演じている。誰でも演じられる(記録を出せる)物では勿論なくたゆまざる練習の賜物でもある。

ジャンプの場合、とにかく変な異次元の人間が見られる。

なぜそうなるのかは分からない。

トップグループの選手だけに限られることだけは確かなのだが、そのうちの誰が異次元するのかは分からない。

しかしそれがほぼシーズンを通して続く場合もある。マリシュやシュミットがそうである。ところが、それがオリンピックシーズンに重なることがなかなかないのは、勝負の彩である。

今回の、ラージの結果はこうである。

金モルゲンシュテイン(133㍍、140㍍)    276・9点

銀コフラー     (134㍍,139・5㍍)  276・8点

銅ビステル     (127・5㍍、131・5㍍)250・7点

つまり今回は、2人の異次元の化け物がいた。

さて、フィギュアスケート女子シングル前半のSP(ショート・プログラム)が終わった。

1、コーエン(アメリカ)   66・73点

2、スルツカヤ(ロシア)  66・70点

3、荒川静香(日本)    66・02点

4、村主章枝(日本)    61・75点

5、マイズナー(アメリカ)   59・40点

6、ゲデワニシビリ(グルジア)57・90点

7、ヒューズ(アメリカ)     57・08点

8、安藤美姫(日本)      56・00点

この結果はどうなのか。上位3人が別世界を滑っているのであろうか。これはジャンプと違って見た目が勝負である以上、簡単にはいえない。しかし見た目が重要である以上は、荒川静香を含めた上位三人の美しさは、そこのところを十二分に分かっている結果ともいえる。

安藤の後に滑った15番のヒューズ(前回ソルトレイク五輪金サラ・ヒューズの妹エミリー・ヒューズ)を見たとき、あまりにも安藤との差を感じて呆然とした。

笑顔でアピールするサービス精神と、手練手管の銀座クラブのママか、京都の舞妓を思わせる(どっちも体験したことはないけれど)誘惑が、画面からあふれ出ていた。アメリカ人が競技を「楽しむ」とは、このことなのか。観客を引き込む。強い以上に人気があるから出場する。魅せるから魅了するし、見る側も見たい。

安藤は、生中継でアナウンサーと解説の佐藤由香両方が言っていたように、服が駄目だった。

再放送で流れたときは、NHKも民放も何故か、その「服が駄目」と話していた部分はカットされて放送された。

服が駄目だ。オレもそう思った。ワダエミだ。

真っ黒に近い。ストッキングまでが真っ黒だ。素人目にもおかしいと思った。まるで負けたときの言い訳のために編み出された奇抜な作戦にさえ見えた。安藤は明らかに荒川や村主よりも劣っていて、なのに出場できたという思いが、どこかにあって、ワダエミという事になったのではないか。

ドキュメントと番組で安藤は、最終選考試合で6位に終わり、「次に向けて」と語っていた。

(その直後に「出場」の一報を受ける)

連盟強化部長でもある城田(サッチー問題にまで首をつっこんできた、ワダエミならぬ渡部絵美の週刊誌記事も含めての想像でもあるが)のゴリ押しもあって選ばれた???という後ろ髪を引かれる思いが、トリノ到着後の更なる安藤の物議をかもすような一連の発言の元ではなかったか。

18歳と若い。言動からは、オレが買い物に行って、買い物籠にちょっとぶつかっただけで睨んでくるから、「ナンだ」といったら「ウッセンダヨ」と気持ちの良くないやり取りしか出来ない茶髪の高校生とあまりカワラナイであろうミキティことプチ泉ピン子は、しょうがないといえばしょうがないか。

黒では、身体の線が映えない。

テレビのインタビューでワダエミは、「素材は元々日本の高価なシルクなんです。(安藤は)太めに見えるから黒を着せた」と語っていた。

競技を本当にどこまで知っているのか。

木を見て森を見ず。日本を見て世界を見ず。

あれだけ盛り上がったカーリングのその後は一体どうなっているのよ。スイス対カナダ、ノルウェー対スウェーデンの準決勝は結局見ることが出来なかった。日本が終われば、それで中継も終わりかよ。馬鹿馬鹿しい。

どこを見ているのか。これじゃあ競技人口もファンも増えやしない。

尤も「オリンピックを見てイラクを見ず」「イラクを見てアフリカを見ず」「アフリカを見て足元を見ず」

ところでワダエミ。音楽が良くてもその映画にあっていなければ、映画音楽としてちっとも合格ではないように、服もまた、安藤に合っていたところで、競技にマイナスに作用するようでは、クソの役にも立たないではないか。

荒川はいつもいい服装だ。自分のキャラクターを知っている。自分のシャープなつくりの顔を知っている。自分のクールないでたちを知っている。見せ方を知っている。それにあわせて、それを元も映える形で登場ダ。村主章枝もまたそうだ。目立たない色香をどう出すか。

だから安藤も、太めであろうと、むしろありのままを出して勝負しなければならない。

太目をむしろ見せるというスタイルが、フィギュア(「形状、姿、図形」の意味)ではないのか。

隠すのではなくて、むしろくっきりと見せる。弱点さえをも、傷口を押し広げて、膿を掻き出し、内面の迷いをさらけ出し、涙も悔しさも(城田やワダの)しがらみさえをも、丸ごとすべてを見せるのがフィギュアスケートの凄さではないのか。

荒川にはそれが見える。何か大切なものを、捨てた跡も感じられるし、それはすなわち、フィギュアという競技生活において、邪魔でしかなかったものでもあったはずで、しかしながら邪魔くさくもあり、また大切でもあった。そのやりきれなさを演技の中で見せる。

今日の深夜始まる。正確には、どの選手が何時何分ごろ登場する、という細かいところまで新聞発表されている。

阪神タイガーズの公式ページのボイス欄では、いつも本日のヒーローインタビューとして、その声を起こしてくれる人がいます。

それに倣って、

刈屋富士雄(NHKアナ)

「このオリンピックのために作った衣装・・・。ただ、なんとなく安藤美姫の躍動感が隠れてしまうような・・・」

佐藤由香(解説)

「そうですね。後ろから見るとほとんど体のラインが見えませんものね。これは完全に、計算違いをしたのか、考える余裕がなかったのか・・・」

安藤も含めて、また今日も見せてもらいます。

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2006年2月20日 (月)

カーリング女子

なーんだよう。スイスがアメリカに勝ってんジャン。

テレビでは、全然伝えてないじゃない。

カーリング女子の話だけど、日本がたとえ(残り2試合イタリアとスイスに)全勝しても、既に、スウェーデン7勝、スイス6勝で決まり。残りの二つだけれども、既に5勝2敗のノルウェーが、ロシア(3勝4敗)とデンマーク(2勝5敗)に連敗することは考えられない。とするとノルウェーの予選突破も間違いない。

となると、現在5勝3敗のカナダが、最後のデンマーク戦に負けてもらうしかない。これに全力を注いで応援するしかないが、無理だろう。

だから絶望的だ。

スウェーデン戦の延長での相手主将の最後の一石が悔やまれる。いや、その前の第10エンドでの、ナンバー2ストーンを取れなかったこと、或いは、・・・。もういくらでも勝機はあった。

それにしてもロシアとの緒戦の、なんという事も無いくだらない逆転負けこそが、今となっては悔やみきれない。

小梅太夫の決め台詞みたいな気持ちだ。

デンマークの粘りという、一縷の望みに賭けて、(イタリア戦は順当勝ちし)最後のスイスを叩くしかない。

デンマーク戦も勿体無かった。

しかし、この競技、メダルが全く取れない日本の出場競技の中で、人気が急浮上してきているのではないか。

はじめは面白いと思わなかった。時間が長すぎる(持ち時間が各チーム73分プラスタイムアウトが1分×2回で、計2時間半)のと、観客がいないし、服装や選手の動きも地味で、形勢が決まれば後はそのままなんだろうと思っていたら、これが逆転をはらむ、慢心に潜む恐ろしい罠が仕掛けられていて、面白い。それが将棋や囲碁とは違って、やはりスポーツである。石(ストーン)の置き所や、作戦は考えられるが、その通りになるかどうかは身体能力が問われることになるのがいい。

ダブルテイクアウト(相手ストーンをハウス内から2個はじき出す)だの、カムアラウンド(相手の石の投げる方から見て裏側に回り込んで停止させる)だの、なんだか専門用語らしきものも、自然に口を付いて出るようになった。

考えて見ると、テレビ向けでしかない競技だ。天井からもカメラが、位置関係を示している。各エンドの後攻が(1チーム4人で1人2石ずつ、全部で八回滑らせる)石を置いた時点で、円(サークルといいたいところだがハウスという)の中心に最も近い石が、ナンバー1ストーンとして得点が認められ、ナンバー2,3,4と次々に自分のチームの石が加わればそれも加点される。その中心からの両チームの石の距離が、真上からでないと分かりにくい。それを会場内の観客席からでは、遠い(多くの試合が行なわれていて間近で見れない)のと角度が斜めであり、多分、判別できない。

まだフィギュアスケートが残っているけれど、それもメダルを逃したとして、ここにきて、カナダ相手にデンマークが勝利を収めることも含めて、奇蹟的に最後のメダルをもし、カーリングが取ったら、大変なことになる。

時間が長いために、彼女たちの顔がアップで、延々と映されていて、皆の顔を覚えてしまっただろう。寺田桜子は1試合だけだったが、丸い顔の目黒萌絵、マリリンことセカンドの本橋麻里、一番綺麗な顔をしているサードの林弓枝、そして大黒柱で多分最も人気を獲得しそうなきっぱりとした意思の見える小野寺歩。

たいしてスポンサーも付かないのか、ナイキではなく、美津濃のウエアを地味に着こなし、もくもくとプレーする。

もしかして、デンマークはカナダ戦で大金星を挙げる気がする。そして日本はどうか。

スイスは、アイスホッケーで、49本の雨あられのシュートを受けながら、全部弾き飛ばして、パワープレイ(反則で、選手が減る)の連続の中、2-0で世界最強のカナダを完封した。オリンピック史上でもこれまで七戦全敗だった。いや、チェコも破った。

競技は違うが、このスイスとの最終戦は、何かいやな予感がする。

もうスイスの予選突破は決まっているのだから、お手柔らかにお願いしたい。

まさか、このコラムで、こんな言葉を使うとは思わなかったが、ニッポン。

ま、やっぱりやめとこう。

まずは今日の夕方5時、イタリア戦を見よう。

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2006年2月18日 (土)

リンゼイ・ジャコベリス

リンゼイといえば、テニスのリンゼイ・ダベンポートでもなく、女優のリンゼイ・ワグナーでもなく、もちろん、今、たった今は、リンゼイ・ジャコベリスでしかない。

スノーボード・クロスのの王者の中の王者、役者の中の役者である。

昨日、男子のこの種目を初めてみて、こんなにも面白い競技があるのかとビックリしたが、女子は、それ以上に波乱があらかじめ仕掛けられているみたいで、面白さは数段上だ。

まず、二回滑って早いほうの記録を採用し)スピードベストの十六人を選ぶ。予選を突破した十六人は、四組に分けられ、四人同時に滑るのがスリルがある。上位二人がベスト八人(セミファイナルの四人ずつ二組)となるのだが、15位の記録で予選を勝ち抜いた日本の藤森由香は、なんとこの決勝ラウンドも勝ち抜いて残る。

どうやって勝ったのかといえば、四人の中で、もっとも遅く引き離されたのだが、二位争いは熾烈で、次に生き残るかどうかでしのぎを削る。その二人がぶつかって転倒し、はるか彼方から四位で滑ってきた藤森が、転倒している二人に追いつき、抜き去り、そしてゴールしたというわけだ。

まるで漁夫の利ををかっさらっていくような展開だが、こういうレースもあれば、かたや藤森がセミファイナルで負けて、五~八位争いとなったレースでは、一人が棄権し三人での戦いとなる。

藤森の前を行くトップ争いの二人が転倒し、それに藤森が巻き込まれた。

とにかく何が起こるかわからない。そんなゲームだ。

そしてそれは最後に最大にして大番狂わせの見せ場を作ってしまった。

ここまでの五輪で、スノーボード王国のアメリカは、ほとんど賞金稼ぎのプロ集団であり、ワールドカップなど目もくれずに、アメリカ国内でのワールドカップ以上のワールドカップを闘ってきた兵が、縦横無尽の金メダルを独占してきた。

このトリノでも、ハーフパイプでは男女とも金銀独占、昨日の男子クロスでも金を取り、イヨイヨこの女子でも四つ目の「金」は完全に見えた、まさにその瞬間だった。

事件というか、それはドラマか、映画か、ショーにも見えた。

それがリンゼイ・バッキンガムじゃなくて、リンゼイ・アームストロングでもなくて、リンゼイ・ローハンでもなくて、(オレもしつこいね)リンゼイ・ジャコベリスだ。

圧倒的な強さでアメリカの、そして世界のトップのジャコベリスは、決勝進出した。ここでも四人のトップを切って、独り先頭を滑走し、そして最後のエアを大ジャンプした。さすがにサービス精神満点のアメリカ人だ。そこで彼女は、エアを跳び、その空中最高点の位置でもって「ひねり」を加えた。観客に勝利の歓びを見せつけ、喜びを分かち合おうとしたのだろう。それは誰の目にも分かった。優勝の凱旋アピールを、まだ、あとほんのちょっとゴールが残っているというのに、してしまったのだ。

それがアダになろうとは、しかし、誰の目にも予想できなかったであろう。だがこの競技、ずっと、波乱含みだった。まさしく、勝負は下駄を履くまで分からない。

結局は、ひねりが、大変な逆アピールとなって、世紀の失態を演じさせてしまった。

ジャコベリスは転倒し、後ろから来たスイスのフリーデンに抜かれ、あわててコースに戻るも時既に遅く、ほぼ手中に収めていたアメリカの四つ目の連続金メダルを、指の間からこぼれ落としてしまった。

ドタバタと滅茶苦茶に勝利の女神が八方美人を繰り返すこの競技のラストを飾るにふさわしい大トリのアメリカが演じて見せた大団円的な幕切れとなった。

いろいろと教訓はあるものの、あの最後のひねりは、ご愛嬌の部類である。

それは、今大会から正式種目となったこの競技を世界に知らしめる、最高にして最初の歴史的パフォーマンスとなった。

オレは、スノーボード・クロスの虜となった。

ジャコベリスの様な選手を生むこの競技自体の自由な気風に取り込まれたのだ。まぎれもなく。

またみたい。

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2006年2月16日 (木)

里谷多英

アテネ五輪で初めてオリンピック出場した、女子マラソンのヌデレバ選手は、銀メダルを獲得した。32歳だった。つい先日の1月29日に行なわれた大阪国際女子マラソンでも優勝した。

アテネ以前から、既にボストンマラソン2年連続優勝や、シカゴマラソンでの金メダルで世界新記録を塗り替えるなど、その実力は、世界では認められていた。

だが、本国であるケニアでは、もっと別の見られ方をされていた。いい年こいて、働きもせずに、毎日走って、この女は、一体何をしているのか?

そう見られていた。女性の社会進出に対して否定的な見方の強い国でもあったし、オリンピックに関心がなかった。とてもじゃないが、世界のスポーツを観戦する余裕のない人々が多い国だ。

果たして、スポーツとは、何のためにするのか。

高橋尚子が走る(五輪に向けて練習する)のならば、お金が出る(スポンサーが付く)が、どこぞの町の高橋尚子では、誰も援助してはくれないだろう。

ヌデレバはどうか。

キューバの英雄コントレラスは、政情不安で環境も悪い自国での野球のプレーを捨て、裏切り者扱いでメジャー入りした。確か、家族を残して、小船で脱出したとか言う記事を見た。松井秀喜と同じ年に、ヤンキースの一員となったものの、全然実力どおりの結果とならず、問題児の様な戦績を残し、昨シーズンを終え、ついに放出された。

だけど、キューバで野球をやるよりもずっとましだ。そう思っている。

いや、キューバでは、出来たのかどうかがわからない。

ケニアの選手は、潜在能力は抜群で、みな、その価値を認められれば、どこかの国(ケニアを保護貿易化している英国や、スポーツ亡命大国のアメリカ。および日本などなど)で生きていく。

『新・雪国』という映画に主演した笛木夕子は、日本で人気が出る前に、韓国でトップスターの一人となった。

アルペンスキー・スラローム(回転)の佐々木明も、冬の競技に疎い日本では、あまり知られていない。むしろヨーロッパでのほうが人気も知名度もある。

肉体をもてあましているかのごときアクションスターの松田優は、体の大きさもあって、現状、日本の映画ではなかなかいい抜擢のされ方をしていない。いい配役が付いても、相手とのつりあいで持って、降ろされたことも何度かある。

海外でこそ彼を生かす企画があり、また彼を世界市場のスターダムに押し上げるプロデューサーもいるかもしれない。

松田優が、今、毎日毎日身体を鍛え、また語学を勉強し、それを見るたとえば近所の人や、Vシネマに出ている仲間などは、ケニアで、なぜヌデレバは走るのか、という目と同じかもしれない。

そして里谷多英。

フジテレビの社員だ。

彼女は、もう、去年の六本木のクラブでの泥酔騒ぎ事件で既に、会社の広告効果の存在としては、著しく価値が落ちていて、トリノで、(その騒動のあおりも含めて準備不足もあり)惨敗したことで、もうフジテレビとしては「用済み」ということらしい。

それは里谷自身よく知っている。

物分りの良い(ように見える)親が、実は、子供に対して、自分自身の見栄や依存関係を満足させる道具化しているのにも似ていて、勉強が出来なくなったり、バイオリンが上手く弾けなくなったり、スキーがオリンピックで15位くらいの成績とあっては、もうお払い箱なのかもしれない。

買う奴(資本家や企業や国)がいて、人間の生き様を金額的な価値に換算されて、値踏みされているみたいだ。

フジテレビで看板番組を自ら演じている、小倉智昭は、いつも鋭く、聞きにくいことまで聞くキャスターだ。さすがに、ここでは「そのこと」は聞かないかと思って「とくダネ」を見ていたら、

「それで、今後の話になるんですが、フジテレビで、僕らと一緒に仕事をやっていくんですか。それだったら、五輪を目指してスキーを滑っているほうが、やりやすいんじゃないですかねえ」

ダーティーなイメージも付いているし、愛嬌もそれほどなく、顔もテレビに毎日出られては、どれほど見慣れるか分からない美しさ、或いは醜さだ。

しかし、この1年のエアでの危険な大技フロントフリップを完成させるに至るまで、恐怖心との戦いだった、と語っている。恐怖でまぶたが痙攣し、止まらなくなったこともあるといっていて、それをまたあと四年やるのかと思うと、少し考える時間を下さい、と小倉には答えていた。

何のために走るのか。何のために滑るのか。何のために生きるのか。

そしてこの文章。何のために書くのか。

カネではない。

「ルーツ」という奴隷だった自分の祖先をたどるアメリカの黒人ドラマがあった。

チキン・ジョージという闘鶏の名人は、黒人奴隷なのだが、その腕を見込まれて、英国人奴隷商が3500ドルで買おうとする。

しかし奴隷の主人は、売ろうとしない。金では渡せぬ理由があった。手篭めにした奴隷女のうちのひとりの息子、つまり実の息子が、チキンだったのだ。

とはいえ「オレにはいたるところに二十人以上の子どもがいる。若い頃、クロ(黒人)の女には目がなかったからなあ。へッヘッヘ」

そんな事情も知らずに、奴隷から脱出しようとするチキン・ジョージ。

ならば闘鶏での分け前金を溜めて、家族全部の買われた金額6000ドルを何とか自由になるよ。

だけど、英国人に売らなかったように、奴隷から解放されない。

「いいか。お前は、ずっとオレのクロなんだ。手放しはしない」

結局は、人間を縛るのは、カネでも価値でもない。

支配欲だ。

NOといえばいいのだ。

どうやって、里谷が生きるか、アスリートを続けるかどうかも分からないが、彼女の今後の生き方を見ていきたい。

なかなかに意味のある15位だった。

もう1度、録画したDVDを見直してみるよ。

里谷が気になってしょうがない。

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2006年2月15日 (水)

岡崎朋美

東京のテレビ局の一団が、あるいは、かつての大手映画会社の撮影隊が地方ロケに行く。

そこで、監督やプロデューサーが、集団から抜けて、ちょっと喫茶店や田舎の食堂などに立ち寄る。

あれっ。都会ではトンと見かけなくなったすごい逸材がいる。美人な上に、随分と様々な可能性を秘めているのが、沢山の女優などを見てきたものにとってはピンと来た。

この娘が、スカウトされ、女優となってデビューし、シンデレラストーリーでもって大スターとなるかもしれない。しかし、そうなることもなくこのロケ地の田舎町で、一生をただただ普通の主婦であったり、喫茶店務めを長く過ごしたりしながら、生きて死んだとしても、それはそれでいい。

世間や世界の人目に、何も触れる必要はなく、巷の町内会や、喫茶店の客の前で、看板娘であったり、お調子者だったりして、そこで必要とされ、しっかりと役割や生きる美しさを達成したとして、それこそ素晴らしい。

立花隆というノンフィクションライターが、田中角栄という当時の首相の犯罪を追及する記事を書いた。書き続けて行くうちに、裁判も長引き、随分と人生の重要な時期をこの件に費やしてしまった、と述懐していた。

そうかもしれぬ。そうでなければ、もっと別の人生があったかも知れぬ。まるで喫茶店の彼女が東京へ出たかのごとくに。

それは家永三郎が教科書裁判で、帝銀事件の平沢貞道が獄中で、或いは水俣病患者が、己の寿命内では収まりきらずに裁判も補償も敗北していった歴史を見るまでもない。

しかたがない。

障害を負って生まれてきたもの、スターの息子、貧乏人の息子、アル中の息子、その状況を背負って生きていく。

岡崎朋美が、もしその他の世界でいたならば。

いつもそう思わずにはいられないのだが、やはりスピードスケートが好きだった。

頭もいい。字も綺麗だ。性格が美しそうだ。そこからこぼれる笑顔は、世界中のスポーツファンならずとも魅了して来た。

40歳代とか、50歳代に、更なる飛躍をする人物に見える。

たまたまスピードスケートの世界の中で、3位とか4位とか言っているけれど、どこにいても美しくたたずんでいるのだろう。巷にもこういう人を見るけれど、巷では、その巷(地域や共同体)に行かなければ、知らないままだ。その意味では、スポーツ選手という(過酷ながら)華やかな世界に登場したことで、岡崎という人の(いくつかのドキュメンタリーなどで)少し存在を確認できただけでも、幸せなことかもしれない。

本当は、もっと見てみたい人だ。

中国の王曼利という人にもたった30数秒なのだけれど、とても興味を覚えた。

フィギュアのペアでの活躍など、次回の北京五輪に向けて、想像を超える圧力と威信を背景にドラマが展開され人間が翻弄されてもいることが予想できるが、そこで、なお「抜けて」いる人間がいる。彼女に直感だけれど、それを感じた。

そういう人がいるからこそ、岡崎も滑ってこられたのであろう。

あの修道僧のような清水宏保でさえもが、岡崎の人間力に感心していたが、このスピードスケートという世界の奥深さと、特に短距離での将棋や箱庭作りといった日本人に向いているような醍醐味を、もっと別の言葉を感じられるような姿で見てみたいと思った。

2回目岡崎と同走のイ・サンファは、最初の百メートルを10・33秒という驚異的なスピードで入っていった。結局、宿敵の王曼利には2回目は、0・01秒上回っていたものの、この韓流に、(男子同様)またしても、してやられた気持ちダ。

昨日の及川は1回目の順位どおり四位のままだったが、任慧(中国)は、岡崎を抜き差って3位に入った。この違いに、恐れ入谷の鬼子母神。

アテネの北島庸介、柴田亜衣。

信じられないものを見たということなのだろう。

ただ、黒岩彰から、いや、もっと前から続く日本のスピードスケート陣の「求道者」的な競技者スタイルは、深い感動以上のものをもたらすだけに、いずれ世界の潮流になって欲しいと(水泳などを見る限りは)より強く感じた。

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2006年2月14日 (火)

加藤条治

サラエボ五輪(84年)で、絶対に金メダルを取るという、あまりにも過大な期待の中、黒岩彰のスピード・スケート五百メートルを見た。

その以前から、日本の五百メートルは、実際のところ、世界レベルには達していた。

結局スタートで失敗し、黒岩は沈む。

寡黙な男で、72年札幌五輪のときの笠谷幸生と同じ重圧がかかり、一方は何とか面目を保ち、一方は、結果的に潰されてしまった。

このスピードスケート短距離には、悲劇が付きまとう。ダン・ジャンセンしかり。その後継者たるウォザースプーンしかり。世界一の男たちが、なぜか結果を残すことの出来ないオリンピック。

ジャンセンは最後のリレハンメル五輪の千メートルで金を取ったが、五百に関しては、このジンクスは生きている。

加藤条治。

清水宏保の34・32を抜いて、34・30の世界新記録を出した男。

今もその保持者で、最も金に近い男。

ここまではいいのだが、今大会は、なぜかこの加藤と、やはり清水の二人が、対照的な性格のメダル候補として取り上げられている。

清水の調子は悪い、というよりピークはもう過ぎているのではないか。

静と動。(野球の)王貞治と長嶋茂雄、或いは、長野五輪時の船木和喜と原田雅彦、必ず無理やりに対照化して、競わせて、見る側は、鑑賞するだけで楽しむ。

特に長野のときは、清水宏保と堀井学、同じ五百での男女で、岡崎朋美と島崎京子。

負けたほうは、何か裏切り者にでもなったかのような騒ぎになってしまった。

しかし、一人、忘れてはしませんか。とは思っていた。大会直前のワールドカップでは、銀と銅の二回表彰台を獲得している男。そして最初の百メートルだけならば世界最速のひとりといえる及川佑だ。

そうしたら、これが順当な力を発揮して四位となった。

この四位という成績は、惜しいといえば惜しいが、金メダルを取ったジョーイ・チーク(アメリカ)は強すぎた。

二回とも34秒台(34・82と34・94)で、あまりにも銀と銅の二人を寄せ付けていない。

二位と三位は、ドミトリ・ドロフェイエフ(ロシア)とイ・カンソク(韓国)で、トータル0・01秒差だ。四位の及川は、1回目2回目とも、上位三人に負けていて、メダルには0・13の差があった。

世界記録保持者の加藤は、さすがに二回目で、(及川を0・02上回る)全体で四位の、35・19を出したが、1回目が(製氷による時間待ちの不運を含めて)もっと良かったとしても、この日のこの三人には、届いていなかったはずだ。

加藤は、1回目、自分の前の第15組の選手(韓国のクォン・スンチョン)に転倒され、八分間時間がずれた。このとき、転倒によって削られた氷の調節のためまたされるのだが、加藤は、わざわざその表面を見に行った。神経質そうに足で状態を何度も確かめてすらいた。大会運営者にクレームをつけてやり直させそうな勢いも感じられた。

これでは、充分に影響を受けているのがありありと分かった。それは、決していいタイムのほうには向かっていかないだろう。そう思った。

長野五輪のときの清水だったらどうだろう。氷上に寝転がって、時の経つのを待っていたのではなかったか。無心で。

このクォンと隣で滑走したナイエンハイムがトラブルで、はじめに競技を中止したところから、クォンのプレーに伝染したように見えた。前回のソルトレイク五輪金メダルのケイシー・フィッツランドルも、同じアメリカのキップ・カーペンターも、共に失敗した。

この辺の事情をがたがた言って弁解したりしてもしょうがない。

解説者が、「これは早い」とか、「ともにいいスタートだ」とか、分かったようなことを言っているわりには、結果と合っていない。オレのような素人の目から見て案外遅く見えたりして、実際は、百メートルのラップで、解説者の言とは大きな違いだったりすることが、随分とあったからだ。

身体の動きだけを見て、本当に分かって、「これは早い」とか「遅い」とか言ってるのかしら。

見ていての実感だが、百分の1秒を争うゲームで、まだまだ発展する競技であろうし、選手間の実力もまたもっと接近していくように思えた。解説者の言葉も。

その最前線レベルに、加藤も清水も及川もタッチはしているが、切り開いてはいないのではないか。

陸上は、百、二百、四百、八百メートルとある(水泳は他に五十メートルもある)が、スピードスケートの五百.千、千五百というのは、いかにも少ない。直線コースとしての百メートルが、種目としてなぜないのか。

結局は競技人口が少ないのではないか。野球ほどとは言わないけれど、五百メートルに関して言えば、アメリカ、カナダ、日本、韓国、中国と、強豪国が何となく野球みたいだ。それを少し北欧に広げた世界での競技みたいだ。

そして、ここに来てオリンピックスピードスケート男子五百メートル7大会連続でのメダルを「韓流」にして阻まれた、という印象だった。

競技をやらなくとも、「見る」ことは出来る。見て面白いはずだ。

そのためにも、競技の公平性を緻密にして、加えて直線百メートルを取り入れて欲しい。

大菅、吉井、岡崎。この後も続々と選手が登場するけど、秘話やトレーニングの物語以上に、まずはワールドカップや国内予選での戦いぶりを見せてはどうか。

見る側も、これでは成熟しない。

ジョーイ・チークの強さをはじめて知って、ビックリするべきなのか、順当なのか。よく分からない。

ダウンヒルの場合は、BSで何戦もやってくれていたから、大逆転劇を演じたアントワヌ・ドヌリアズ(フランス)については、ダークホースとはいえ知っていた。

少し知らなきゃあ。見ても面白くない。

高校野球だって、各県予選の決勝ぐらいは、ダイジェストで見る事が出来る。

冬のオリンピックは、本当に人気を挙げようという気がどうにもないみたいだ。

秘話よりも競技そのものを見せろ。

そのためにも、今やっている競技をぶっつけ本番で見て、楽しんでいくしかない。

だけど、こうやって楽しんでいる無邪気な国の人間(自分も含めて)は、(まるで「ミッキーマウス」の著作権を守るディズニーみたいな)オノヨーコの「イマジン」などで、ごまかしきれるものではない。開会式で、イタリアにはあまり縁を感じられないオノヨーコが何で出てくるの?

オリンピックって、そんなものなのか。

開会式はいらない。

競技だけに特化して、ひたすら、自らの自責と恥を知るしかない。

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2006年2月13日 (月)

ヤンネ・アホネン

ノーマルヒルは、こんなものかなと思った。

アホネンの彼方へと跳ぶジャンプを期待したけど、駄目だった。

不思議だ。

アホネンは、鳥人と言われたニッカネン(フィンランド)のワールドカップ勝利記録(46勝)をいずれ抜くといわれている、圧倒的な現在の王者だ。

その時(1~2年)だけの絶好調という多くのジャンプ覇者たちとは根本的に違う息の長い好調持続プレーヤーでもある。

それがその通り行かないのだから、ノーマルヒルでは箱庭的な争いに過ぎない感じがする。

やはり、見応えのあるのはラージヒルだ。

本来なら、1回目トップに立ったワシリエフ(ロシア)が、この日の調子どおりにすんなりと飛ぶものだが、ロシアでただ1人爆発力のあるワシリエフにも力が入った。というより、決して1回目で「抜けて」はいなかった。

ジャンプは、運と勢いと体調と実力のピークとのすべてをもらった選手が、手の付けられない結果に落ち着くのが常だ。しか始祖の醍醐味は、ノーマルヒルには、あまり無い。だから、団体もラージであるし、ノーマルヒルの大会はオリンピックぐらいしかない。

今は、フィンランド、ノルウエー、オーストリアの三つ巴に、ドイツが追随する形であり、ベンコビッチの引っ張るスロベニア、ヤンダのチェコ、マリシュのポーランドは、少し水を開けられている。

その中でもヤンネ・アホネン(フィンランド)は、あまりにも強く、安定感がある。

ジャンプはなぜか、長く活躍する選手がいない。

長野で金メダル2つ、銀メダル1つを掻っ攫った船木和喜にしても、「いよいよ、これから」という若さだったにもかかわらず、長野の年のワールドカップ総合順位が2位で、翌年4位、次が14位で、その次の年は30位だ。

長野のオリンピックイヤーに全盛期を誇ったスロベニアのプリモジュ・ペテルカは、まだ大学生でワールドカップ総合2連覇を果たすも、あっという間に普通の選手となっていった。

長野イヤーのペテルカにとって痛かったのは、ジャンプ週間で不調だったことだ。この勢いがそのままオリンピックには反映する。ハンナバルトだけが、史上初の4戦全勝でジャンプ週間を制したにもかかわらず、その年のソルトレイク五輪ではシモン・アマンに金メダルをさらわれたが、普通は、ジャンプ週間どおりの結果になる。

そして数々の強力な1~2年の覇者たちを尻目に、確実に王者としてこのトリノに臨んだアホネンは、特にジャンプ週間は強く、長野イヤーの九八年に銅メダルを取って以来、翌年金メダルのあと二年連続銀メダル、〇三年、〇五年、〇六年(今シーズン)と金メダルを勝ち取り、バイスフロクの四勝に並んだ。

ニッカネン、ニエミネンと圧倒的な若き才能を繰り出してきたフィンランドの栄光の頂点に君臨して円熟期を迎えての大会なのだ。

笑わないポーカーフェイスであることから「鉄仮面」だの「マスク」だのといわれているが、自動車のドラッグレースで北欧チャンピオンにも輝いている。単なる趣味ではない。

九九~〇〇年のマルティン・シュミット(ドイツ)、〇一~〇三年のアダム・マリシュ(ポーランド)とまるで他の選手には手の付けられない時期があった。彼ら“覇者”達の全盛期をもまたいで、常に第一線で活躍し続け、今ついに王者の貫禄で登場したのである。

しかし現在ワールドカップポイントで1位のアホネンが、このノーマルヒルでは6位。2位のヤコブ・ヤンダ(チェコ)が13位。アンドレアス・キュッテル(スイス)が5位と、爆発的な上位の異常さが見られない。ジャンプはいつもトップグループが異常な力を発揮して、別の世界に飛んでいく。

原田雅彦が四位となったアルベールビル五輪のラージヒルは、ニエミネン、ヘルバルトのジャンプ週間金銀コンビがそのまま金と銀を取り、クッティンが銅、原田が四位。しかし5位との差は13・3点。これだけの差は、あまりにも他をこの四人が圧倒していたからで、4人を除く全員が飛び終わった後、別人が四人登場したみたいな跳び方をしていた。

たとえば、この時のノーマルヒルは、四位と五位との差は0・1点。僅かな差をしのぎあっての順位なのだが、ラージではさすがに実力がそのまま現れ出た。つまり、この年のワールドカップランキングでは総合29位に終わる原田が、五輪期間だけは異常な力で、ベスト四人の中にいた。それだけにメダルを逃した原田は、勿体無かった。評価という点では、メダルと遜色なかった。

今回は、去年復活してきたシュミットや、調子を合わせてきたマリシュ、日本で異常な力を見せるヨケルソイ、アホネンに次ぐ準エースのマッチ・ハウタマキ(弟)、十代の若き爆発力を見せるオーストリアのモルゲンシュテルンやスロベニアのベンコビッチ、スロベニアの若きエースのダミアンなどの中で、多分アホネンを中心にどれだけの数の選手が、別の世界のバカ力ぶりを見せてくれるか。

ラージと団体が待ち遠しい。

十代のヒーローが誕生するかもしれないが、アホネンの現代ジャンプの最高級の力を見たい。

岡部孝信が、最高齢での勝利記録を、原田、葛西についで、達成すれば、今後永遠に破られることの無い金字塔となるだろう。

その可能性にも期待する。

ラージが見たい。

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2006年2月12日 (日)

上村愛子

上村愛子がたった今、モーグル(フリースタイルスキー)で5位入賞した。残念ながらというべきか、もしくは、よくやった! というべきか。

本人は、メダルを狙っていた。

もちろん、それは、長野五輪で7位入賞し、ソルトレイクシティ五輪で6位入賞し、今回は、満を持して臨んだ大会であったからだ。

だけど、もし、もう一方のモーグルの柱である里谷多英が、長野で金、ソルトレイクで銅メダルを取っていなかったら、これほどまでに、存在証明としてのメダルにこだわっていたであろうか。

彼女の穏やかな性格と、国民から圧倒的な人気を得るだけの美貌は、そのどちらもが、里谷多英に比べて、あまりにもはっきりと優劣が良くわかるだけに、それらを含めてさえ(人格ごと)否定しかねない、オリンピックでの「結果」には、どうしてもこだわらざるを得なかった。

しかし、それにしても、モーグルという競技は発展途上の競技だと思った。

電化製品で、冷蔵庫や洗濯機は、もうこれ以上は、何を修正したり、オプションをつけたにしても、何も発展進歩のしようのないほどの段階に来てしまっていて、新製品も出ようがないということだ。

たとえば日本の相撲も、歴史は長いが、競技人口は激減し、世界からやって繰る「選りすぐり」というよりは、まだまだ「ポッと見つけた才能」というレベルの人たち(琴欧州や朝青龍、露鵬など)であっても、上のほうで通用するわけだから、これも発展途上かもしれない。

マイケル・ジョーダン(NBAシカゴ・ブルズのスーパースター)が子供の頃からの憧れで入っても、結局マイナーリーグですら通用しなかった、メジャー・リーグなどは、かなりの高レベルであり、ルールも固まっているといえる。

モーグルは、まだ規則改正もあり、技の難度も上がっていくように見えた。かつてウルトラCという言葉が最上級の意味で使われていた体操競技も今は、Cより上の「D」「E」と難易度が上がっている。

今は、解説が、原大虎や三浦豪太が落ち着いた語り口で提供してくれているが、長野五輪のときの聞くに堪えない「やったー、多英! スッゲー、多英!」のアホ解説者には、はっきり言って、人材がないというか、まだちゃんとした解説者さえ輩出できないジャンルだったと感じた。

名前は言わないが、あの解説の男は、たとえ「普段はもっとちゃんとした人間だ」と誰かに弁明されても、オレは信じない。あの里谷多英の滑った時間にしたら、二十数秒ということになろうか。二十数秒で、あの男のこれまでの品格や生き様が分かる、とも言える。もちろん全部ではないが、気分が「ハイ」になればとことん下品に乗るバカ。そんな奴は、中途半端なインテリの中にはよく見かけるけれども、スポーツマンでは(これも中途半端以外には)見ない。

なんなのだ。

益子焼のふるさと、益子町に観光客が訪れて、「何でこんなに益子焼(の陶器)が高いのだ!」と怒っているシーンをNHKのドキュメントで見たことがある。

「あんたは名人だといっているが、偉そうに、ただ筆でちゃちゃっと2,3秒の時間をかけて塗っているだけではないか!!」

そうしたら、確か当時八十歳を過ぎた人間国宝の濱田庄司だったと思うが、それに対してこう答えていた。

「2,3秒ではない、八十年と2,3秒の時間がかかっているのだ」

オレもこれに似せて言うけれど、その解説者の二十数秒を見て言っているのではない。

「二十数年と二十数秒を見ていっているのだ」

こういう解説者がいるという点でお里が知れていた。

たとえば純ジャンプであれば八木弘和、古くは笠谷昌生の解説を聞いて欲しい。

「やったー幸生」では、汚点であったはずだ。

さらにルール改正が今後もあるかのようなあやふや感も発展途上という印象だ。

モーグルのエアにおける技の点の仕組みも不透明だが、ゴールまでにかかる時間と、ターンでの点数の基準、さらに予選での点数がどう響くのか、これが分からない。いや、ルールは読んだから少しは理解できるが、決して明瞭なものではない。

ターンが点数の半分を占め、エアとスピードが共に、さらにターンの半分ずつ。

しかしながら、観客が見たがるのはエアでの大技であり、スピードや特に配点の高いターンの切れは、玄人受けしかしない。審判にアピールするには、やはりターンの技術を磨くべきか。しかしターンは、あまり改良の余地はなく、そこで目立つことをしたなら、スピードに影響するというおかしな反作用がある。

そんな状況下で、上村は、エアにおける3D解禁によって、「コークスクリュー720」という大技を持ち技に取り入れることを決心する。

それはまあいいだろう。そして一発型の里谷多英に比べると、自分の場合は安定させなければ勝負にならないことを知っているゆえに、結局はこの3Dを完璧に近い形にまで持っていくことになる。

だがこの技を磨くことは、やはりスピードを落とす。手堅さが、逆に仇となる。「3Dでの得点はすごい」と語っていた上村だが、実際、この大会を見たとき、もちろんターンでの得点がすごく、さらにはスピードでの得点もまた大きなポイントであった印象が強い。

上村の「720」は完璧だったといってよい。上村らしい。

前回のソルトレイクシティでは、その時点で(その年度)ワールドカップランク2位の実力でありながら、何かが足りず、自信を持つことなく入賞に終わった。それは、確かな手ごたえが足りなかったのであろう。上村の様な堅実型にとっては、見切り発車でまぐれのメダルよりも、納得の上でのメダルが欲しいのだろう。しかし、それでもまぐれでも欲しくなるのが人間の常。

エアは、堅実でも、その他は結局は見切り発車だった。特にスピード。

里谷のメダルが励みでもあり、重圧でもあった。

完璧に近いのに、しかし3~5位しか取れる見込みはなかった。

上村愛子は銅メダルを目指したとしかいえない。

かつて、総合2位の実力のとき、逆に上位に名を連ねる連中の怖さと強さを知って、せいぜいしっかりと3Dを決めて、自分のできる範囲の銅メダルに照準を切り替えたのではないか。

つまり、完璧に近くとも、あのクラスを超える選手は少なくとも、今回の銀を取ったカリー・トラー(ノルウェー)と、ついに金を取ったジェニファー・ハイル(カナダ)とそして、アメリカの19歳、ハンナ・カーニーがいた。それに加え、銅メダルのサンドラ・ローラ(スウェーデン)の様な(その大会だけ)勢いのある選手というのが必ず3人ぐらいはいて、上村を含めた七人で上村がこれを決めても、後の六人が全員成功すれば届かず7位、そして(四人が失敗しても)少なくとも二人は失敗しないはずで、結局は3位狙いといういう絵図しか浮かんではこなかったのだ。

この5位は本人にとっては最も悔しいだろうけれど、3位だったらよかったのか。3位も5位もあまり変わらない上での、メダルのあるなしのようにも見える。

3~5位狙いで、その通りの結果をつかんだのだから、同じといえば同じ。それが「銅メダルではなかったから残念」というのは、世間に気持ちをゆだねすぎだとオレは思うが、果たしてどうなのか。

決勝で上村(28,47)よりも1秒近い速さ(27,51)でゴールした里谷のほうにこそ、もしかしたら、という爆発力が見えていた。完成度の低い技であれ、博打を賭けて臨んできたからだ。

里谷多英は、報道されている通り、あまりよろしくない日常生活とその性格なのであろうけれど、それを吹っ切るぐらいの一発勝負を賭けていたのが、やはり見えた。

人間、性格的なものは変えられない。

優しい性格なら、さらに万全を期してのカリート・ラーにも有無を言わせぬ磐石な化け物になるしかない。

それにしても、エアでの磐石を果たした今回の上村の四年間を、世界のファンは忘れることはないだろう。

少なくともオレは忘れない。

こういう人を忘れられない。

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2006年2月10日 (金)

荒川静香

21日に女子ショートプログラム、23日に女子フリーがある。

トリノオリンピック・フィギュアスケートの話だ。

長野五輪での絶対に金メダルを取れるといわれた純ジャンプの団体のときよりも、その日が来るのを、オレは息を呑んで待っている。

荒川静香。彼女の演技を見たい。彼女の美しさを見たい。彼女の立ち居振る舞いを見たい。彼女の勝ち負けを超えた結果を見たい。協議会とどう立ち向かい、世間とどう対峙し、オリンピックに加熱するマスコミとどう渡り合うのか。

勝ち負けではない。よく聞く言葉だ。では「楽しみたい」のか。この「楽しみたい」という言葉には、「勝ち負け」という考え方の上(勝ち負けに拘っている自分を既に含んだ上)での響きがある。荒川は違う。本当に勝ち負けとは違う輝きを追求している。勝ち負けを超越した未知の世界の、その姿を。たとえテレビであっても、我が目で、見て確かめたい。絶対に面白い。

一九七〇年の十一月。全日本歌謡選手権。本名の松山数夫か、もしくは当時の芸名三谷謙で歌ったのかは知らぬ。勝ち抜きの第二週目に、その男は、大川栄作の『目ンない千鳥』を歌う。その日、その会場である豊中市民会館(大阪府)の廊下で彼は、作詞家の山口洋子と出会う。いや、すれ違う。<番組出場者全員の中で、歌がうまかったというのはもちろん、それよりもマイクロフォンがまるでピストルかナイフのように見えて、男がすべてを賭けて勝負しているといった気迫を感じました>(『涙と笑顔』講談社の中の山口の言葉)

オレはこの本の中の、この言葉がたまらなく好きで、何度も反芻している。

<男がすべてを賭けて勝負しているといった気迫>

それを、その男に惚れ込んだ山口洋子という女が、言葉を何とか紡ぎだして使っている。

五木がどうであれ、歌手となるために付き合っていた女と別れ、野口ジム、徳間康快と言った大物との付き合いも含めたスター街道上の道筋には、そう奇麗事ばかりのはずは無い。それでもいい。それよりも歌を聴きたい。あの男の気迫のすべてを注ぎ込んだ結晶の肉声を聴きたい。五木には魂がこもっている。

随分前に死んだオレのおばあちゃんが五木ひろしのその魂に惚れ抜いていた。祖母は、苦労してきた人間に惚れる感度というものを著しく持っていた。新潟の生まれで、もらわれっ子で、この時代の貧農の子はみな大なり小なりNHKドラマ『おしん』みたいな生活を体験しているから何も珍しくはない。オレと母が札幌の実家に逃げ帰ったときがあった。父の雑な人生につき合わされるのは嫌だった母。それでも「息子(つまり父のこと)を許してやってくれ。戻って来てくれ」と頼みに来たおばあちゃん。その時もいつものように泣いていた。父にタバコの火を押し付けられる度に、やはり泣いていたおばあちゃん。それら全ての膿を噴出させるごとくに、七三年の大晦日、「夜空」で五木がレコード大賞を取った時、文字通り号泣した。

オレは大学には進んでいないが、祖母の死の直前、病室で母は「大学に合格したよ」とウソをついた。そのときオレは能天気に大阪でブラブラとあてどなく生きていた。何で祖母がそんなことに拘っていたのかは、中学を出て歌手になった五木を応援する態度と矛盾するのだが、その人の信じている価値は下らなくとも、そこでは深みや内容は問題にされず、あくまでも強弱だけが問題になる。或いは、自分には果たせぬ「狂気」を、五木に見て、心酔したのであろう。

荒川静香。もうここのところ、NHKスペシャルや、ちょっとしたニュース・ショーやバラエティー番組で、かなり決まりきったパターンではあるが、数限りなく伝えられている。

そう、イナバウアーについてである。

ジャンプの葛西紀明が、まず世界の舞台に名を知られたのは九二年三月、世界フライング選手権で、百八十二㍍を二本そろえて優勝した時のことだ。十九歳であった。翌92-93シーズンのジャンプ週間で総合二位。この時、スキー板の下に顔をうずめる前傾姿勢で、ヨーロッパのマスコミから「カミカゼ」の異名をいただいた。トルネード(野茂英雄)バサロキック(鈴木大地)ライジング・サン(伊達公子)。いずれも日本人は、必殺技を繰り出して、そしてたいていはそれが新しいルールで制限されたり、禁止とされて、そこにドラマが数々繰り広げられていた。

荒川静香のイナバウアーもまた、新しい採点基準の得点としては、低く評価されることになり、窮地に立たされたのだ。それでもイナバウアーを多分、やる。

だから見たいのだ。

世界で初めて「トリプルアクセル(3回転半)」を国際大会で決めた伊藤みどり、同じく世界初の「4回転」を公式戦で決めた安藤美姫、世界初のスロー・トリプルアクセルを跳んだ井上怜奈。バレエの本場のロシアに先んじて、華々しい快進撃を続けている日本のフィギュアスケート界。その中でも、ひときわスケール大きく立ちはだかる巨星のような荒川静香。その最たるしるしがイナバウアーである。

イナバウアーを見ろ。

イナバウアーが見たい。

ジャンプ、ステップ、スパイラル、スピンの四項目それぞれに「レベル1」~「レベル4」の得点を満たす技が規定されている。スパイラルの中で演じられるイナバウアーは、あれほどの美しさにもかかわらず、難度が「レベル4」ではなく「3」なのだ。荒川だけが美しいのかもしれない。

たとえば野球で、ホームランの場合はヒット2本分の価値としていたとすると、それを1本分にされたとき、なおホームランを狙うか、ヒットを狙うかみたいな選択が迫られたようなものだ。

ロス五輪で、体操競技の森末慎二が、鉄棒で、十点満点を獲得し金メダルを獲得する。しかし伸身後方二回宙返りという安全策を使っての勝利だった。大技である三回宙返りを決めなくても満点である十点基準は満たしていたからだ。だが皆、期待していたのは、三回宙返りのほうだった。森末の着地したときの奇妙な笑顔のアピールは、「これで良かったんだ。最高のメダルである金メダルが獲れたんだから」という悲しい訴えにも見えた。

あの笑顔でよかったんだ、と今も森末は「もしかしたら」という疑問を問い返すこともなく、生きているはずだ。或いは、どうか分からないが、意識下にそんな邪念はしまったままのほうがいいのかもしれない。

でも、オレだったら森末にはならなかったはずだ。他人事だからこんなことを平気で書いている。

荒川静香は秘策がある、といっている。コーチも直前になって代えた。

かつて、荒川は、「もうこれでやめることが出来る、と思った」と語っていた。2004年の世界選手権で、金メダルを取ったときのことだ。やっと目指すものを達成したのだ、と。伊藤みどり、佐藤有香につぐ三人目の快挙。

しかし報道陣は皆、次のオリンピックでの金メダルへの期待を口にする。まるで、(たった今終わったばかりの)世界選手権などは、オリンピックに比べれば、前哨戦の様な価値の低いものであるかのような質問が(達成感でいっぱいだったはずの)荒川に浴びせられた。

おかしい。本来は、もう、充分に、やりきった満足感の勝利者に向かって、なぜそんな言葉しか出てこないのか。

だからと言って、オリンピックのメダルを無視した戦いをするわけではない。しかし、メダルと同等の世界選手権のそれを既に掻っ攫っている以上は、別に新たに五輪のそれを付け加えたいという気持ちよりも、やはり、その先に向かっていくはずだ。それは、自らの到達したい美しさ、生き方とぶつかり合って表れ出る迫力、表現力の限界、観るものの心を動かす原動力、その結実点を、その人々が期待する舞台だからこそ、メダルと並存する形で見せ付けてくれると思う。

それを見たい。

新しいコーチのモロゾフは、いくつかの番組を見た限りでは、(NHK杯などで)封印していたイナバウアーをやはり取り入れることにしたようだ。

世界一美しいイナバウアーを入れないわけには行かない。

そう語っていた。

荒川静香自身もまた、いくつもの激しく女のすべてを賭けた言葉を吐いていた。

ポイントにならなくとも、人の喜ぶことをやりたい。

イナバウアーを生かす「トゥーランドット」(プッチーニ)に曲を戻す。

世界の得点規定の流れに逆らって、美しさを追求したい。

ルールを変えるぐらいの勢いで、勝ち負け以上に納得の行く演技に向かう。

得点に繋がらなくとも、観客から賞賛の拍手をされるほうを選ぶ。

記憶に残る演技をしたい。

荒川が21日、その日、ついに現れる。

ちょっと前にショックなことがあった。

オレのやってきた仕事についてである。自画自賛はしないが、少しは意味があると思っている。

オレが書いてきたことで言えば、ある種の世界の人たちを鼓舞してきたことは確なはずだ。少なくとも自負はある。

映画の評論は、アート系(難解でインテリ受けする映画といってもいい)の評論には、一定の読者が付き、したがって需要と供給が成立して、商売になる。しかし、オレのようなシネマといわれるやくざな映画は、見る人はいても、その人たちは文字を読まない。したがって、そのことに関して本を出しても売れない。或いは書く場所がない。したがって誰もやろうとしない。その中でオレ一人が孤軍奮闘してきたことは、見る人が見てくれれば分かる。そのことの評価を抜きに、「お前のやっていること(物書き)はくだらない」とか、「やめろ」とか言われても、判断の根拠がないではないか。

もちろん、学校などで映画の歴史や理論を学ぶ生徒に向けて、啓蒙する映画としてのアート系に比べて、ファン層の確かな感触を見いだされることなく製作サイドからも棄てられてはいる。

オレは、しかしながら、その萌芽は常に出現してきて来ていると感じていて、それがために書き続けてきた。物言わぬ、文字読まぬ人々に、映画を観たいという意識がまだまだ存在するからだ。

そういった切り捨てられていく層と共に、闘ってきた(書いてきた)オレの歴史を、畏敬とはいわずとも、理解ぐらいはして欲しかったわけである。

しかし、

「その(10数年の歴史というか)仕事でいくら(の金額)になったんだ?」

などと言われたら、

カネの多い少ないで、仕事の質も量も測られているみたいで、お前にはそんな基準しかないのか、と思ったよ。

金メダル以上に美しい演技を見たい奴だっている。

チクショウ、オレはオレのイナバウアーを必ず実現して見せる。

荒川静香。金じゃない、メダルでもない。そういうやつこそ、真に彼女のイナバウアーを見てほしい。

もしかしたらイナバウアーを見せないかもしれない。それもまたドラマだ。

人間、何が起こるか、何を起こすか、わからない。

とにかく見ろ。

あれだけ年末の全日本フィギュア選手権(女子)が視聴率を稼いでいたから、とんでもない熱狂になることは確かだろうけど、その本質を見誤りたくはない。

特に荒川静香に関しては。

荒川静香は歴史を変えるし、歴史に永遠に名も記憶も残す。

トリノ。もうすぐ開幕する。

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