2006年2月 6日 (月)

竹下景子

橋田寿賀子の「夫婦」というドラマを見た。

正確には、作・橋田寿賀子、脚色・清水曙美だ。

橋田の代表作の1つ「となりの芝生」に近い味で、面白くはあったのだが、キャスティングで、1人、妙にいただけない人がいた。

竹下景子だ。

この人は、一時、カネボウヒューマン系というか、独立プロ映画の一歩手前系というか、教育映画系というか、そういうところで、年齢を重ねた上で、やっとそれらしくなり、腹もたたずに見ることができるようになったなあ、と最近思っていたばかりだったのだが、やはり、昔抱いていた「嫌」なところが、また頭をもたげてきた。

竹下景子は、『飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ』という、八二年一月つまり、あの大ヒットドラマ「北の国から」放映中の公開の映画で、脱ぐシーンがあるのを、吹き替えの女優にやってもらっていた。

その(脱ぐシーンを他の人にやらせる)姿勢に代表される「好位置取り」というか、役割分担みたいなものを平気でやる女優というイメージがまずオレにはあって、それが彼女を見る気にさせなかった。

言ってみれば、自分は「クイズダービー」で頭のいいところを演じ、他の女優は、肉体のいいところを演じると言うわけだ。もし全編裸のシーンならば、ほとんど出番がゼロでも成立するではないか。

その逆のようなことが、今のテレビのバラエティーにおいて、飯島愛や高木美保において成立していることを考慮すれば、結果はどちらも頭がいいと見られたがっている点で同じであるから、決して一方ばかりに分があるということではない。だからオレが何も目くじらをたてることはないのかも知れぬ。

しかし、頭の悪い奴が、事実に反して「良い」と思われたがっているのは、気持ちはわかるが、下品の上塗りでしかなく、だからといって頭のいい奴が頭がいいと思われたがっているのがどうかといえば、はっきり言えば、嫌味なものである。

昔からそういう人はいる。古くは、高峰三枝子とか、エバ・ガードナーとか、京マチ子とか、実際いかにもその風格があった。今なら岸恵子あたりがそうかも知れぬ。だんだんと年齢が低くても、斉藤慶子(熊本大)などあたりから持ち上げられ、いまや、菊川玲(東大)、学べかをり(横国大)など、ちょっとなあ、という人たちが、席巻している。

本当に賢いのなら、そんなに嫌味もないはずだ。

個人的な意見では、斉藤由貴とか、最近では小池栄子、長澤まさみなどが賢いと思う。

何を持ってそういうのかといえば、難しい知識を沢山持っているということよりも、受け答えで、気持ちを言葉にするのにごまかしなく伝える技術が、自然に感じられるということだ。「ええと」「なんというか」「なんだろう」などを連発し、「すごく」と形容するのではなく、「すごい」うれしい、などと使う人や、「あれ、何だったっけ」などと、知ったかぶりをして少しでも物知りぶりたがる人などは、お里が知れる。

「女同士でも、やっぱり頭が良くて、美人のほうが、一緒にいたいし、付き合いたくもなる」

とは、女房の語った言葉であるが、女房についての話を、ここには書けない。

駄目だといわれているからだ。

書かれるというのは、人は皆「嫌」なのだ。

オレの親にしてさえそうだ。

だから、みてくれが勝負のスターにしても、やはり自分の見てもらいたい形でならいくら書かれてもOKなのだが、そうではない形の露出(出来上がりの文章)に関しては、こだわりのない部類の人でもしつこく改変を求めてくる。

人間、生臭いものだ。

「東京タワー」という母親との赤裸々で露骨な吐露の小説が100万部を突破したらしい。その著者、リリー・フランキーには、オレはとてもなれない。

妻のこと一つとっても、なかなかかけないのであるから、そりゃあ、なれません。いや、ならない。なりたくもない、と、ここまで書いてしまうと、なんだかリリーを意識をしすぎているみたいだ。

そんなことはないから、リリーにはならない。と。

リリーに、『日本の皆さん、さようなら』とかいう著書があるけれど、まあ、オレとしては、「リリー・フランキーのような皆さん、さようなら」というような本なら書くとは思うけど・・・。って、これもまだまだ、口説いネ。

だいた、竹下、リリー。ま、やめとこう。

自分を棚に上げていうのだけれど、器量も度量も容量も、見れば大体に見当は付くではないか。竹下景子は、(もっと美人で頭のいい人から見れば、たいしたことはない女というかもしれないが)自分がどう観られているかぐらいは知っているだろう。

だから「北の国から」で、草太兄ちゃん(岩城滉一)が、地元の幼馴染のつらら(松田美由紀)ではなく、東京からやってきた雪子(竹下景子)を好きになるのも無理はないと思った。

頭が良くて、美人なんだもの。これを否定しているようでは、現実を直視していないだけだと思うが、どうか。

しかし、竹下景子は、結局この「夫婦」で、「となりの芝生」の沢村貞子には、なることは出来なかった。

この不愉快について、これ以上書くのはやめよう。

ドランクドラゴンの塚地のネタ、「ハ・ラ・た・つ」。

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2005年9月18日 (日)

『女王の教室』『逆鱗組七人衆』二つの「仰げば尊し」

卒業シーズンでもないのに、「仰げば尊し」という歌を1日に2回も聴いた。

しかしその二つは対照的で、考えさせられた。

ひとつは『女王の教室』というテレビドラマである。

初回視聴率が14,7%(ビデオリサーチ調べ。以下も同じ)と、低めなスタートだったにもかかわらず、最終回直前は19,7%と、月9の「スローダンス」(初回は22,5%で最終回は,8%)を抜き去った。昨日の最終回は90分スペシャルで、20%を越えたのではないか。

当初、日本テレビでは、「女王の教室」と「おとなの夏休み」という二つの女優主演のドラマがスタートし、番宣で、それぞれの主演、天海祐希と寺島しのぶがともに「**は日テレ!」と快活に叫んでいたが、寺島のほうは、朝日新聞でもエッセイやズームアップで取り上げてもらっていたにもかかわらず、その人気の無さが、ばれてしまった。

「おとなの夏休み」は、今シーズン(7月期のドラマ)中の最低の(23時台のドラマ「はるか17」よりも低い)平均視聴率6,99%を記録し、早々とキャッチフレーズは、「『女王の教室』は日テレ!」のみになってしまった。

さて、その最終回は、天海祐希演じる「嫌われ」先生が、逆に生徒からの信頼を集めて終わるのである。少し前の「ニュース23」で筑紫哲也が、海外の教育と日本のそれとを比べて、近年、日本では特に大人をバカにする風潮が強まって、子ども自身にとってもよくないと嘆いていた。そこでのフィリップは「恩師」であった。ずばり、この言葉を耳にしなくなった、と。そしてその恩師を敬う歌詞の「仰げば尊し」もまた歌われなくなった、と。

筑紫の番組は、ちなみに日テレではない。

天海祐希演じる「あくつ・まや」という教師は、現実社会の厳しさと、でたらめさな大人社会を、徹底的に冷たく突き放しながら教え込む。それは、黒い装束で、神波史男脚本の傑作『女囚さそり』シリーズの梶芽衣子を思わせる。タランティーノが、このドラマを見たら熱狂していたのではないか。梶は、女という存在が、一般社会でも刑務所の中でも、劣等に扱われ、不当にさげすまれる悲しみ怒りを怨念へとたぎらせて、復讐する。

その行動体系に一本流れる「陵辱」の記憶。

天海にも管理教育、しいては日本の押し付けの幸福論に対するいかんともしがたい怨念がたぎっていたように見えた。『男はつらいよ』シリーズの原作監督山田洋次が、寅さんを持ち出すことで徹底的に管理教育を嫌い、反逆していたように、天海は、衣装でもまた「黒く塗れ」を最後まで実践し、エンディングテーマで踊っていたシーンをラストに見せるのかと思いきや、それも無く、教室へともどっていった。

「なぜ勉強をしなくてはいけないのか」と子供たちに問われ、「しなくてはいけないものではありません。する必要のあるものだけがするのです。その必要を回避すれば、そういう人生も結構です」といった調子だ。

「なぜ、人を殺してはいけないのか」。

「人には誰にも、かけがえのない人生があるからです」。

その教師が、教育委員会からつるし上げを食い、卒業式への欠席を命じられる。

しかし式場ではなく、教室にやってきた「先生」の情報を耳にした生徒たちは、押しかけ、先生からの卒業証書がほしいと泣き、歌うのである。遠く忘れられていた恩師の歌「仰げば尊し」を。

一方は、劇場公開されている映画で『逆鱗組7人衆』という、いわゆるVシネマの世界である。今、日本の映画というのは三層構造になっていて、ちょっと説明すると、以下のようになっている。

これは、今発売中のある新聞にオレが書いているものからの抜粋である。

<プロ野球改革元年の今年、パ・リーグでは、明らかに3つの世界に色分けされたかたちで、戦い方が展開されている。ひとつはソフトバンクとロッテが、早々にプレーオフ権の3位以内確保というマジックナンバーを点灯させて、1位争いをしている。ひとつはその2強に次ぐ3番目という位置を狙いに、オリックス、西武、日本ハムがしのぎを削っている。ひとつは、どこを狙うわけでもない楽天が最下位一人旅を続けている。「2強3弱1ナシ」とも囁かれている。これはまるで今の日本映画界のように見える。

『妖怪大戦争』だ、『亡国のイージス』だ、と映画の看板である「大作」をとにかく作らされる。「この映画って、面白い映画って事で、いいんだよね」「誰かが褒めてたよ」「じゃあ、良いってことだよね」。まあ、そんな友だちの和みたいな「いい映画なんだ」の和が広がっていく。製作側も「こういう大ヒットする映画がいい映画なんだ! わかったか」と監督にハッパをかける。「はい、わかりました」。(大きな映画を目指して監督になった)監督だとしても、これが幸せな結末なのかは、わかったものではない。

一方無数の、かつてなら自主映画としか呼びようのなかったような「小さな映画群」。一般大衆という幻想はそこには何もなく、個別の分・衆というか、もっと細分化されたそれぞれのグループに向けて、自己存在の追求だったり、いまどきの漫才で扱うような、「これって、よくあることだよね」という小さな体験の確認だったり、まあ、プレーオフの3位狙いなのか、初めから多くの人間に向けて「見てもらいたい」という気構えはない。

さらに、シネコンの建設ラッシュでスクリーンが増えたにもかかわらず、そこですら掛けてもらえない一人旅の「Vシネマ」。そこでは尚、消え去ったはずの「大衆」向けに形骸化したテーマを扱って、かえって意固地なのか、甚だしい時代錯誤も随分と見られる。もう、方向があさってなのかも知れぬ。そこにオレは、いる。「なし」とされる世界。

だがなぜ無視されるのか。「大作」と「小さな映画群」しかない歪な構造を照らし返す意味もそこには含んでいて、シネマを通して、この3極構造を見直さねば、職場としての「日本の映画の現場」が瓦解していくだけではないか。しかし発表の場がない。

たとえばこの新聞もそうなのだが、劇場公開作品を公開日の前に試写で見て、時評風に書かざるを得ないスタイルが媒体の作り手と読者の間の了解としてどうしてもある。そうなると、「大作」は内容云々よりも、話題を紹介さえしてくれれば、お祭り騒ぎの片棒担ぎのお役目ご苦労であり、それに抵抗しようとすると、せいぜいが小さな映画群の中から、比較的「選民意識」の少ないグループ向けに出来ている良品とやらを見つけてきて取り上げるという、ゲリラ戦にもならないような自己満足の抵抗を繰り返すのみだ。そこからはVシネマは、作品の存在は勿論、その意義さえも抜け落ちる。しかし今、そこには悲鳴が現れている。(以下略)>

『逆鱗組7人衆』は、その悲鳴の一本というわけである。

そこでは、何の違和感もなく「仰げば尊し」が、歌われる。

内容はといえば、ヤクザがしのぎに困って、あの手この手で生きる悲哀を、特に家庭生活という一般社会への対応において、そのギャップを面白おかしく見せるものだ。はっきり言って、ギャグはすべっているし、最終的なテーマも、「堅気にあわせるつらさ」ということでしかなくて、あまり笑えない。よくヤクザ映画で使われる「任侠」的な一面、身を削ってまでの人助けなどの堅気にはない素晴らしい面を強調するという『泣かせ』もあえて廃しているようでもあるが、じゃあ、それに変わる見せ所を提示できたかといえば、押しが弱いのである。主演の武蔵拳は、もっと破天荒に、チャップリンも、エディー・マーフィーも、赤塚不二夫も、植木等もみなまとめて蹴散らすぐらいの壊れ方があってもいいはずだ。シリーズ化されるというから、この奇作が、生きていくような展開を望む。

その中でヤクザの武蔵拳は、何の衒いもなく「仰げば尊し」を歌うのである。

Vシネマのアナクロさが、あまりにも突き抜けていて、歌唱力は下手で、よくテレビのお笑いが「狙って」やる故意の下品でもない。多分、この場(Vシネマの世界)で生きる人間たちの、それでも腐らず、焦らず、精一杯の人たちのすがすがしさと、いやみのなさが、ギャグのすべりとは全く無関係に、伝わってくる。

「女王の教室」で、まや先生(天海祐希)は、「今、この場で出来ることをして生きろ」という。それはまさしく、数少ないチャンスを狙って、少しの生きる場をチョットずつでも広げていこうとする男たちの、まさにシネマの人たちではないかと被さるものを感じた。

「女王の教室」の裏番組で、NHKスペシャル「タクシードライバーは眠れない」も録画してみた。そこでは、タクシーの規制緩和が、逆に労働条件を切り詰め、タクシー運転手の生活を圧迫しているという実態を、特に大阪の実情から見つめていた。

大阪ではタクシーの事故が、この五年で二百件増えているという。慢性的な睡眠不足と、乗客の奪い合いで、起きているらしい。長い就業時間のために、自家用車兼用のタクシーも増えているという。事故の元だ。

シネマの現場も、しかし安く切り詰められ、この労働条件でよくもまあ作品が出来上がるわい!というほどに、奇跡的に作り続けられている。

ちょうど、「逆鱗組7人衆」に出ている俳優の松田優さんより電話があった。「ちょうど」というのは、彼のお父さんが、タクシーの運転であり、しかも、タクシーのメッカといわれる足立区で、オレも一時足立区に住んでいて(ビデオ屋をやっていた)、地域のタクシーの運転手さんと非常に(ビデオの)お客さんとして接し、その過酷な状況もよく知っていて、松田優という類まれな、肉体労働派というか、『ヘラクレス』『ベンハー』といった奴隷解放や蔑まれた民衆を立ち上がらせる代表にうってつけの魂と肉体を持ち合わせた役者に、ぴたり重なるところがあって、NHKが盛んに訴えているこの日本の規制緩和だ、民営化だ、ディスクロージャーだといった政策への問題点は、特に大スクリーンの映画で、松田優こそが、激しく叩きつけるべきだと、本気でオレは思っている。

先週、「EZテレビ」で、韓国のテレビドラマ事情を写していた。まさに地獄絵図で、50時間連続撮影をして、ギリギリ放映時間に間に合わせたと思ったら、人気ドラマの場合は、週に二~三回放送があって、その翌日に次回作ということで、キムチ食って、気合を入れなおして、50時間の直後になお徹夜で明日までの撮影を始めていた。

こちらの場合は、タクシー運転手の労働の過酷さとは違って、かつての日本映画の活気に似ていて、カネもチャンスも可能性もどんどんと付いてきているという理由がある。

それにしても、いい状態とはいえないのではないか。そういう中から傑作が出てくるという言い方もあるが、麻薬でハイになっている時に、ロックの傑作も生まれたという言い方に似ていて、麻薬無しの場合との差を証明できるわけではない。

映画監督の三池崇史に、ちょうど韓国で撮影してきて帰ってきたときに、インタビューしたことがあって、そのとき監督は、「日本の映画界はぬるいよ。韓国では、日本で言えば熱湯なのに、そこにみな飛び込んで、冷たいよってウソぶきながら、まだ熱くない、熱くない、って言ってやっているんだ」。

そう語っていた。

そうして出来上がった『妖怪大戦争』が、どんなものかといえば、(もちろん見させていただいたけれど)どうもオレには解らない。

そういえばあのタクシー映画の佳作『月はどっちに出ている』のルビー・モレノも、『逆鱗組7人衆』の舞台挨拶に登場した。

色々な人間模様をぶつけ合いながら、映画は出来て、転がっていく。

「あくつ・まや」がたぎらせていたように、怨念が渦まいている。

タクシー業界に限らず、Vシネマの世界に限らず、虐げられて、悲鳴をあげている現場は、益々増えている。

アメリカでは成人の黒人男性の服役率が4.5%に迫り、白人の多く住む地域で『刑務所産業』が盛んになっている、とアーサー・ビナードという詩人が新聞に書いていた。

反逆の徒・松田優の暴れまわる映画を見たい。

もちろん天海祐希、そして武蔵拳の今後にも期待する。

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