レイ・チャールズの映画『レイ』は。公開されてからも、観に行く気持ちにはなかなかなれなかった。好きも嫌いもない。「大御所」だということをなんとなく知っていた、というだけだ。和田アキ子の憧れの人であり、和田と競演したライブは見た。その程度しか興味をもてないでずっと生きてきた。
たとえば、映画を見ていて、端役なのに大物ゼンとして出てくる「かつて凄かった人」で、好きなタイプと嫌いなタイプがいるとすれば、多分、後者なのであろう。
第47回(2005年)グラミー賞で最優秀レコード賞など8冠を「故人」のレイ・チャールズが制覇し、過去13度も受賞していると聞けば、「ソウルの巨人」の一人といえなくもないわけであるが、グラミー賞なんて、ストーンズが、「ベガーズ・バンキット」「レット・イット・ブリード」「スティッキー・フィンガーズ」「イグザイル・オン・メインストリート」といった作品でも、かすりもせず、気の抜けた85年に初受賞という代物であるから、基準にならないといえばならない。
実際、62年10月の「愛さずにいられない」以降は、レイは、1位をとっていないのではないか。
それに、ビートルズが席捲を始めた年の64年以降に、何も抵抗できずにただただ「大御所」としてぐらいしか知られていなかったとすれば、死んだ年(2004)に死を予感して若いリスペクターたちと競演を重ねても、決して死ぬまで現役感を漂わせた人ではないように感じられる。トータルアルバムとしての何か1枚でも傑作があるのかといえば、これがない。
オーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、ジェームズ・ブラウン、スライ、スティーヴィー、マイケル、プリンス、アレサ、ティナ、モータウンの面々、モーリス・ホワイト、クインシー・ジョーンズ、ナイル・ロジャース・・・いくらでも挙げるけど、ビートルズ以降に果敢にロックとの戦いを演じ、勇気を持って刺激をしあったR&Bの連中の中に、レイ・チャールズとかチャック・ベリーは、どうも、オレが聞いてきた中では引っかかってこなかった。
で、チャックの場合は、しかし、大物ゼンとして居座るわけでもなく、ちょっとした老いぼれの、なかなか今風に乗れないオヤジという姿で必死に攻めていた。
レイ・チャールズって一体なんなのよ。そう思っていた。サザン・オールスターズの「いとしのエリー」は、確か、オーティス・クレイが、先に取り上げて話題となって、レイ・チャールズがあとからのこのこ(日本人にもなじみの)大御所登場というような形で出てきたのではなかったか。オレの記憶が間違いでなければ。
いや、だから恨みつらみは全然ないのだけれど、ただただ興味を覚えず、しかし『レイ』を撮ったテイラー・ハックフォードは、器用にツボを外さず「面白い映画」を撮ってくれる監督なので、まあ、面白いだろうと思って、DVDを借りてきた。これが2時間30分もあって、しかも面白い。さらに解説が20分ぐらいで終わるのかと思ってみたらいつまで経っても終わらず、そしてこれまた本編よりも面白い。2時間を過ぎたところでやっと気づいた。本編と同じものに解説をかぶせているんだ。そして本編は2回見たから、結局7時間半を、よくわからぬレイ・チャールズに費やしたのだ。
さて、さっき、面白いと書いたが、本当に面白く出来ている。退屈しないし、演技者たちが凄くいいし、うまくも新鮮でもあるし、美術がいいし、なんたって音楽がいい。
しかしである。何かしっくり来ないのだ。エピソードの羅列で、ミュージッククリップを20個くらいつなげたようなものにも見えるし、音楽ファンのための教材用に総花的な全体像を薄く見せたようにも見えるのだ。
何が気に入らないといっても、面白い上に、核がない。肝がない。俳優が、レイ本人に遠慮している。麻薬あり、愛人ありで、ここまで描いてもいいのか、大手の映画会社だったらタブー満載で出来ないはずだ、みたいな監督の解説があるが、よく言うよ。
あまりにもお決まりというか、きれいに紙包みに治まった形の、愛人と麻薬が登場して、これこそが「面白い」物ですよ、といわれているみたいで、面白いだけで、何も残らない。
本来は、葛藤があるのではないか。掘り下げずに、できるだけ沢山のエピソードを盛り込んでいくのはいかがなものか。しかもそれが串刺しで、粘土が固められて捏ねられていくようにエピソードが発展し歩き出すことはない。一級の作品に仕上がっているのに、監督の描きたい思いとつながった瞬間が見えない。
何がレイのすごさなのか。そこそこに賢く冷淡に、女も家庭も麻薬もこなして世渡りをすることなのか。それならそれで、徹底的にそこを描けばよい。どうもそうではない。では、弟を死なせてしまったトラウマとの戦いの歴史なのか。だとしたなら、なんと弱い演出であることか。わからないよ。もっと観客に考える時間をくれないと、レイが抱えていたであろう深い闇について想像を働かせることが出来ない。トラウマと戦うシーンは、監督が映画と戦うシーンであり、一瞬観客を取り残すほどの逸脱したシーンになるはずだ。それがない。置いてきぼりにならないから観客としては面白がっていられるけれども、面白さとは別のもっと深刻な後味を残すという醍醐味がない。
普通、傑作といわれる映画には、そういった(監督以外には)難解にしかみえない「格闘の跡」がある。しかもそれこそが観客を刺激してやまない。
65年以降の40年間は面白くないので省いたという。監督自身の言葉で、「私はその後の彼の人生には興味が無い。成功ばかりで面白くないからね」と解説が入る。だったらレイ本人の意向も無視して、79年の一番面白くない州議会に認められる件り(レイがかつて黒人差別に抗議して演奏中止をしたことに対し集は演奏禁止で対抗した。その謝罪と、「わが心のジョージア」を州歌に決定)もラストシーンとすることはなかったのではないか。
ジョウ・スミスのインタビュー(『ポップ・ヴォイス』新潮社)でもレイは、ジョージア州歌になったことと、ケネディセンターの生涯功労賞や、ユダヤ人文化教育促進協会のマン・オブ・ザ・イヤー選出を輝かしい年としてあげている。一番いい年はしかし、初めて自分がバンドを持てた54年を挙げてはいるが、「賞」や「偉さ」を強調したい匂いはやはりぬぐえず、映画がそれに準ずる事もあるまい。
オレとしてはむしろ、成功ばかりで面白くないというその後の40年をこそ見てみたい気がした。盲目で黒人でというハンデを追いながら、あれほど生き抜く知恵を磨き、しかし同じ時代に生きて、公民権運動に対しても、鈍感すぎるのがそもそもおかしいし、自分勝手のマイペースが許されるほど甘くはなかったであろう一面をもう少し描いてほしいという前半生は勿論だが、それ以上に、鈍感で、甘かったとして、なお残る後半生での成功裏の、本当の声を聞きたいのだ。
惚れた女たちも、名声と音楽に惚れただけなら、むなしすぎるではないか。
何か別の力をを感じたはずだ。
わが子の期待にさえ応えられないジャンキーの自分にふがいなさと、絶望を覚え、薬をやめる。退廃にまみれるその真っ只中でさえ、その力が、あったのではなったか。ここを最大のポイントとしてオレが監督であれば描く。そのためには、子供たちもただの背景のようにはせずに、一個の意思を持った直接に主人公に語りかける人間として登場させる。やめるつらさは、こんなハードルの低い描き方ではダメだ。その後もやりたくなる。またビートルズなどが登場した後の音楽シーンにおいて、自分はもうかつての様な王者として君臨することはなく、あとからあとから、刺激的で、政治運動社会状況その他にも敏感で意識的なアーティストたちが多数登場し、またドラッグで死んでもいく。
そこで何を考えて40年も「昔の名前で」生きていたのか。
生の声が足りない気がしたのは、(盲目の)目が画面に現れないから、しかもサングラスでかなりの顔の部分が隠れて、表情を読み取れないから、余計に意思が不明瞭かつ感情が希薄に見えたのかもしれない。レイよ、お前は一体なんなのだ。
ハンデを背負ったものが、才能を磨き、勲章をもらい、名誉白人となったことが偉いのか。
クラレンス・カーター、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ファイブ・ブラインド・ボーイズ・アラバマ、スティーヴィー・ワンダー、盲目の黒人アーティストは、それだけで凄いわけではない。
やはり、トラウマが元で起こしたトラブルや破滅行為を克服したことが凄いのではなかったか。そこが大変であり、見せ所だったのではなかったのか。
反戦でもなければ、公民権でもなければ、デカダンの塊りでもない、社会を意識することよりも、己の克服が問題だったのではなかったか。どうやって克服したのか。あの映画では、そこに費やす時間と深さがないので、それがよくわからないのである。
映画に登場するニューヨークも、ボストンもロスも、みなニューオーリンズで撮影されたという。ジョージア州議会までもルイジアナ州議会(ニューオーリンズ)で撮影されたという。いまや水没している事態のニューオーリンズ。
『レイ』
惜しい映画である。そして紛れもなく面白い映画である。
ただ、画竜点睛を欠く。そう思った。
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