野球の本
センバツ出場辞退の前から、駒大苫小牧に関しての本(何故雪国のチームが優勝するまでに至ったか、そして不祥事)を、書きたいと思い、出版社を当たっている。
だけれども、なかなか取材費を出してくれるところもなく、暗澹たる気持ちで、口内炎などにかかっているのが現状だ。
苫小牧のいすゞ自動車工場に1年間働きに行こうか(そこで地元の話を集めてルポしよう)と考え、応募もしたが、ちょっと無理があった。
車体に塗装の吹咐をする仕事らしいのだが、ポンプを揉んで押す仕事が意外にきついらしく、そのためには握力不足で、かつ場所が寮と工場自体はなれていて、車で通う距離らしく、断念した。なかなか上手くいかないもんだ。
「谷岡の書く駒大苫小牧」が読みたい!!といってくれる人もいるにはいるのだけれど、それが大手出版社の編集の人という(まぐれ当たりの様な話)でもなく、そうではないから、夢のままに終わってしまいそうだ。
駒大苫小牧は、ついに、センバツ優勝の横浜高校と試合をやることになった。
春季大会後の六月十八日に駒大苫小牧―横浜(10:00)、横浜―光星(13:00)が、光星学院(青森)50周年記念試合(八戸大野球場)ということでの招待試合。
胸騒ぎはするが、ルポルタージュは金がかかる上に、売れないから名前のある書き手でないと出してくれる出版社もなく、部数も少なく、実現しない。
だけど書きたい。リスクは大きいけど、何より見てみたい。
今度取材するVシネマのスターは、曽根英樹という人で、『恐喝こそわが人生』というVシネマに主演し今がロケの最中だ。哀川翔、小沢仁志も共演する。
『恐喝こそ我が人生』は、深作欣二監督が松方弘樹で撮った作品のリメイクだ。
昨日会ってきた。三角マークの東映任侠映画を正統に引き継ぐ継承者であり、三池崇史作品の常連であり、ホラー物で頭角を現している異色の俳優でもある。
いい感じだ。
実は、デビュー時は千葉真一と同時主演していた曾根晴美(のち悪役で東映のみならず日活でも名をはせる)の息子だ。曾根晴美は、近鉄パールズの投手出身で、(映画のほうの)東映入りし現在にいたり、その血筋なのか、息子の曽根英樹も福井商業でエース、甲子園手前の決勝まで進んだ、という話(まだ調べついてません)を聞いてはいる。
『恐喝こそ』深作欣二版のほうの脚本家神波史男は、「北風史」の「史」でもあり、氏から色々と話は聞いている。
今日、新庄剛志が引退宣言をしたそうだが、あの北海道日本ハムファイターズが、東映であった。
東急自体が、もともと球団を東映の親会社である東急が買ったのも、苅田久徳(六大学のスターからプロ入り。セネタースの名二塁手。隠し玉の名手)が、「買ってくれ」と猿丸元(東急総帥・五島慶太の子分)に泣きついたからだ。
「チンポ酒事件」で有名な東映の製作主任だった寺川千秋も、高松商業で全国制覇を2階経験した二塁手だった。
東映の(野球のほうの)監督となった水原茂と同期である。
東映が系列会社の「東急フライヤーズ」を買うのが「松竹ロビンス」の最後の年となる五四年である。五島慶太の時代から、実質の管理は東映社長の大川博がやっていたから、五島昇の時代になったときに、昇が野球が嫌いだったために、大川(つまり東映)が引き継いだ。
東映ニューフェース元年の年でもある。この年から東映はドンドンと俳優を集めていった。そして六〇年には第二東映を発足させる。とにかく俳優が足りなかった。このときのバブルで俳優に転進したのが東映フラーイヤーズの選手だった悪役商会の八名信夫である。今では「まず~い青汁」のCMでお馴染みだ。
元プロ野球選手の映画俳優というのはあまりいない。
曾根晴美までがそうだったとは意外だ。
というのもプロ野球は花形だからだ。
スター選手ならば他のスポーツ選手に比べれば、食い扶持が比較的多く存在し、一流でなくとも、すでに甲子園のヒーローであったりする。少々の俳優以上に大きな脚光を浴びてきているわけだ。いまさらというのもあるのだろうし、相撲、プロレス、ボクシングが、ロック歌手のように比較的脇のキャラクター、或いは悪役として求められる素材に適しているのに対して、「プロ野球」の場合は、映画の黄金時代にはどうしても「日本のキングスポーツ」の時代だったから、主演が絵になってしまう。張本勲、江夏豊、藤村富美男が、顔のごつさで持って、いずれも東映のヤクザ映画で、重要な役として出演している。扱いは、みな特別出演である。
長島一茂でも、扱いは主演である。それでも今Vシネマに脇役として出まくっている元ロッテ、そして横浜高のエースとして甲子園で優勝した愛甲猛などは、過去の栄光をかなぐり捨てているのだろう。黒い交際、筋肉薬物使用の告白、などなど。
そんな中で、元プロ野球「東映フライヤーズ」の投手だった八名信夫。
五六~五八の三年間で未勝利、奪三振計十三、(近鉄との対戦中に)負傷して選手引退後、親会社の東映映画に出演し、以後「悪役商会」を率いる名バイプレーヤーとなった。
東映が系列の「東急」を買った五四年は、日活出現で映画界の黄金時代の幕開けを予感させた年でもあった。順位こそそれぞれセパ両リーグ最下位を含む、6、3、5、7位であったが、映画会社の球団が四つ存在したことになる。東映も大映や松竹同様に悲願の優勝を一度だけすることになる。しかも日本一にまでなる。そのためにということで、リーグ分裂後八度の優勝を決めている「読売ジャイアンツ」の水原茂監督をセ・リーグから引っ張ってくる。
水原茂は球界入りした昭和十一年について、「当時の職業野球は世間からまったく理解されておらず、まるでヤクザの世界に実を落とす心境だった」と自伝に書いているが、ヤクザ映画の東映を親会社とする「東映フライヤーズ」に監督として就任するのは、六一年のことである。
口説き落とすために奔走した俊藤浩滋は、その著書「任侠映画伝」(講談社/山根貞男と共著)にこう書いてある。
<そこで、私は思案した。これはなんぼ言うてもあかん。いっそ奥さんに強力にあたったほうがええのと違うやろか。>
真相はそういうことらしい。
最近刊行されている「おそめ」という本を立ち読みしたが、ちょっとこの本はねえ・・・。
そしてどうなったか。まず観客動員数の推移を以下に書く。単位は千人である。
東映の最初の年の五四(186)五五(154)五六(207)五七(214)五八(546)五九(645)六〇(353)六一(707)六二(1367)六三(1169)六四(944)六五(654)。
いかに六二年の熱狂が凄かったかがわかる。前年甲子園優勝投手の「怪童」尾崎行雄が浪商から中退して入団し十七才でチーム最多の二十勝を挙げる。同じ浪商出身、二二歳の四番打者張本勲が、3割3分3厘31本塁打99打点でパMVP、前半戦終了次点で二位南海とのゲーム差十六で、二〇〇三年の星野阪神でさえ、二位ヤクルトとは十四・五ゲーム差である。とにかく圧勝のシーズンで、日本シリーズも勢いそのままに四度の延長戦の末、セ・リーグの覇者阪神を破った。その年の沢村賞小山正明とセMVPの村山実は共に防御率1点台で27勝と25勝。その「小山、村山、雨」と言われた二人に対して二敗ずつ土をつけての日本一であった。
観客席には鶴田浩二から高倉健から皆が駆けつけていたと言うが、その映像は上っ面だけのバラエティー番組などで紹介されているにしろ、映画館で昔やっていた「東映ニュース」などの映像で残っているのだろうから、まとめてそのまま見たい。
かくしてその後一度も優勝することなく七三年「日拓ホーム」という不動産会社に売却、日拓は七色のユニフォームという触れ込みで七種類を着用、選手たち自らが混乱し監督も途中交代、五位に低迷、その日拓ホームから日本ハムが翌年買った。
何でもいいけど、野球の本を書きたい。
誰か書かせてはくれまいか。
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