ある俳優
俳優のインタビューをするのは実は好きだ。
そして少々の自信はある。
なぜなら、たぶん自分の中にある、「生きる」方程式と、似た部分を操作しながら、その成功例を少しでも勉強させていただく、というこちらの目論見に、残念ながら、まんまと彼ら、彼女ら「俳優」というものは、乗ってきてくれる。
そういう商売だから、という悲しいサガを見るときもあるし、それは人間が生きて活動する、むしろ根源的な、それでいて俳優にしか許されない特権だから、という羨ましさとして実感するときも両方ある。
いずれにしてもオレは、俳優というものが好きなのであろう。
俳優以外には、この手法は、あまり通用しない。
とはいえ、一般の人でも、何でも、その世界で「有名」(商店街のリーダーとか、囲碁の集まりで強いとか)であることに、照れと誇りがない人はいない。
ねっとりと絡みつくようにオレを睨みつけ、全く(インタビューアーとして)信用などしないぞ、と構えている人でも、「生きる」という活動は、他人の中に証拠を残す、記憶として刻印する。それが出来れば、自分のイメージする姿に近いものとしてあって欲しい。そう願っているものである。
せめて、このオレに、わかって欲しい、と思ってもらえるように、つまりは、オレに対して、「こんな奴に何を言ったところで、どうせ分かりゃあしないだろう」と思われさえしなければ、糸口はあるという事だ。
それだけ孤独に、モノ欲しそうに、人間に興味を失っていない姿勢を、身体からオレが発していなければならない。
そのことに多少は、人よりもお節介で、人よりも興味津々屋だ。
色々な人のインタビュー記事を読むのも好きだ。
その取材にどれだけ時間をかけているか、何を目的としているかを、しっかりと読み取り、対象(俳優)の妙、より以上に、書き手の温度と粘り、生き様を見ていく。
少なくとも、それほどに、いいインタビューはない、と我ながら思う。
これは、世間知らず、恐いもの知らずの戯言だと思ってくれ。
しかし、今日インタビューをしてきた俳優については、妙に、戸惑った。
何でかしらないけれども、インタビューする側のオレを、かっこよく見せたいとか、知ってもらいたいみたいなおかしな感情を抑えるのに苦労した。
それはどういう事かと言うと、彼について、知っていたつもりが、やはりたった今、目前で会っている最中にもかかわらず、「あまり知っていない、うまく捉えられていない」という自分を発見していたからである。
波長が合わないという人はいる。それはそれで「そういう人である」という認識でもって、逆に落ち着くものだ。合わない波長ならば、その波長を、あるがままに、吸収すればよい。自分の得意としない波長である事が既に手がかりでさえある。
だけど、今日の彼は違った。
波長がないのだ。いや、性格には、波長を出していない。
波長は、演技の上でしか出さない、しかも本人の資質からというよりも、技術的な積み上げで出す。ならば職人肌かといえば、半ばそうであろうけれど、そのことに徹しているという思い込みを持ってはいない。
たとえば大スターの高倉健でも、会っていれば、波長は出る。出すものである。
説明不要であっても、サービスとしての場合もあるし、寂しさ、惚れっぽさのせいもあるだろうし、相手(インタビューアー)に、「我」を見せてしまうものだ。
その事は合った事がない高倉健についても、会う前から分かる。
そのぐらいの自信がオレにはある。
どうってことのない話を書いているのではある。
「我」をうまく見え隠れさせてしまうのが、それが役者の役者たるサガであり、役者冥利でもあるからだ。一般の人はそれが下手で、実業で金をもうけて生きる。
目に見えるもので相手を威嚇して生きていく。
全くプライベートに三船敏郎さんと何度か会う機会があったが、彼ほどに、気配りしながらシャイで(逆に言えば「我」もなければオーラもない)おとなしい人はそうはいない。
だから、彼の映画での演技を見て、びっくりする。
他の人は、(何度も名を挙げて恐縮だが)高倉健でも、池部良(何度かやはりプライベートにあったことがある)でも、ほとんど無名の俳優でも、見せたい自分はいるし、それがためにこの稼業に入ってきたのではないか、という当たり前の前提がある。
まあ、しかし目立ちたくない人というのはいる。
妻と私も結婚して20年目に突入したが、もともと水と油である。
似たもの夫婦というが、似ていない夫婦もいる。
要するに、人前で話をしたり、自分の名が(こういう文にさえ)でることが嫌なのだ。
その代わり、人に対する興味も、世間知に関して必要と思うことに関してさえ薄い。
だからオレの連載の文章も読んでいないし、出した本さえ読んでいない。
その彼女の口にする話とオレの世界(たとえば高校野球とか、たとえばⅤシネマ、ギャンブルといった男くさい世界)が交差する機会はあまりない。
旅行で言えば、彼女の念願は、オーロラを見に行きたいわけであり、オレはマチュピチュに行きたくて仕方がない。
エジプトにピラミッドを見に行ったけれど、そんなに彼女は面白がるわけではなかった。スペインもしかり。子供の頃から天体望遠鏡を見るのが好きだったというから、亀田興毅の試合も、ワールドカップ(サッカー)も、WBC(野球)も、もちろん競馬もみない。オレはニュースを見て、彼女は天気予報を見るのが趣味だ。
オレは天気なんてみたことがない。
その彼女と、何故か交差した俳優が、今日の彼である。
マルちゃんといえば、普通は、ゴルフの丸山あたりを想像するであろうし、オレなんかは、千葉経大付の三番バッターの「丸」君を想像する(このこと自体が少々異常ではあろうが)けれど、彼女と生活していると、その意識が写ってしまうと言うか、まあ、別の人である。
渡瀬恒彦とかたせ梨乃の出るドラマを、興味もないはずなのに、XPでDVDに収める。
そんな中で、「劇団演技者」という番組も、しっかりと、永久録画保存しているのである。
父親が、焼き鳥やだか居酒屋のチェーン店をやっていて、「忠」という字は代々「名前」に入れる事で受け継がれているとか、「ニュース」に比べて、彼らはかなり早い時期から活動していて、Rという人(彼はニュースにも所属)など98年の時点でまだ140センチしか身長がなく、良く伸びたものだ、とかオレとしては無用の知識が、耳に入ってくる。
彼女にとってのオレの書いてる本みたいなものだ。
で、今日の俳優なのだ。
彼女が興味を示すものと、オレのコテコテ趣味の中の一部が合致するとき、それはたいていは、世界大(要するに小さな蛸壺の内輪な通用の仕方ではなく、何の前知識がなくとも何処にでも通用するという事)のサイズの人が多い。
彼もまたそうであった。
彼をインタビューしていての焦りは、女房に対する20年暮らしてもなお捉え切れていない「分からなさ」が、彼の中から現れ出ていたのであろう。
凄い俳優だ、などと陳腐に語ると笑われるが、今からインタビュー記事をまとめるに当たり、相当量の格闘をしなければ、これは手ごわいと思った。
いつも格闘しているけれど、たいていは、人間力を使って、へとへとになるほどの経験知と身体感覚であるから、何とか言葉は出てくるものだ。
だけど、20年暮らしても見えない領域の様な、北極のオーロラの様な、宇宙の人の様な、静止画像の様な、円周率の様な、解けない回答を迫っておだやかに佇んでいる、こういう人に対しては、何が出てくるのだろう。
顔がふけないというより、地球サイズでの年の取り方ではない、
冷静に自分を目立ちたがり屋だ、といっていたが、今はそれを役者として以外にはあまり発揮する必要がなくなったのか、そしてその立ち位置が確立されたのか、やはり穏やかであった、というのが印象だ。
どこかでアピール(営業行為)をしなければ、ここまでの道のりはなかったであろうと思うし、そういう必要を知らない人間でもない。むしろ敏感に察知する、しかしすばしっこい嫌らしさがない。
「目立つのが嫌いだ」といって、微妙に目出させたり、「俺の話を聞いたって面白くないでしょう」といいながら、目いっぱい語りたい詰まんない話をしたり、「人と同じことをしない」というわりには、そのスタイル自体がかなり役者にありがちなスタイルだったり、そういう人は無数に見てきた。
彼は、「目立ちたがり屋」だといって、そしてそのことはしっかりと把握できているのだろうけれど、最もそれが、このインタビュー内のパフォーマンスとしては出さない。
それは非常にかっこよく、礼儀として人間的な気がした。
人間は根源に役者的なグ郡があると冒頭書いたが、実際に人類の全員が役者になっては、それはいけない。むしろそういう意味では、人間は役者になどなってはいけないはずだ。
その事を知っている役者ではないか。
知らないからこそ役者をやっている人ばかりの中で、彼は知っている。
伝わりにくい言葉しか、今のところ出てこないけれど、そういう人に、今日、会った。
『ゴッドファーザーPART3』という映画のラストで、アル・パチーノは大きく叫ぶ。
呪いの言葉を声に発したといってもいい。
しかしそれは役者特有の叫びだった。
アル・パチーノもまた充分に役者であった。
「うぉーっ」
尾崎豊に「米軍キャンプ」という歌がある。
この歌の最後でも尾崎は絶叫する。
「うぉーっ」
♪お前はこの街を呪い、かたくなに夢を買占め彷徨っているだろう
アル・パチーノが叫んだあの叫びを、今日あってきた「彼」の演技で何度も見た。
オレも今。
実は叫びたい。
それは、どちらかというと、尾崎豊のほうだ。
「彼」の繊細さは、オレの物書きとしての人生を変えるかもしれない。
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