亀田興毅
亀田について一言書かねばならないのか?
ボクシングの起源は古代ローマ時代とも言われる。観衆の人々が作った輪の中で行われたことから四角い形に変わった今でも「リング」と呼ばれる。
二〇〇四年のアテネ五輪からは、女子レスリングが新たな種目として採用され、ソフトボール(女子)を野球(男子)と対と考えると、男子のみの競技は、ついにボクシングただ一つだけとなってしまった。
それほどにきつく恐ろしい競技といえる。
スポーツ評論の玉木正之は常々、野球を甘く考えてはいけないスポーツのたとえとして、「死球を食らえば死ぬ危険のあるスポーツですから」という。
函館オーシャンの久慈次郎(社会人野球の「久慈賞」のあの久慈)は捕手の牽制球で死んだけれども、実際死球で死んだシーンなど、メジャーリーグを含めオレは知らない。
しかしボクシングでは、他のスポーツに比べて圧倒的に死の危険度が高い。八二年に金得九がレイ・マンシーニに倒され死亡後、世界戦が15ラウンドから12に変更されても、死亡事件は、その後も起きている。危険なのだ。
ボクシング気狂いとしても知られた劇作家の寺山修司が監督した映画『ボクサー』では、延々と、ボクサーの名前とその不遇とが語られる。それが当たり前だとでも言うように。 元全日本ウエルター級チャンピオン熊谷二郎。昭和十八年、満州国新疆自治区の留置所で発疹チフスにかかり死亡。 元全日本ライト級チャンピオン佐藤東洋。昭和二十年、復員の途中で死者もろとも川に転落し死亡。 元フェザー級世界十六位橋本淑。昭和二十二年、有楽町の橋の下にて死体となって発見。 元東洋フェザー級チャンピオンピストン堀口。昭和二十五年、馬入川鉄橋で汽車の轢かれ死亡。 元フェザー級秋村竜三。昭和二十五年、兄を殺したやくざを射殺して自殺。 元ウエルター級高橋治。昭和三十六年、新宿の下宿で、就寝中、飛び込んできたトラックに轢かれて死亡。 元世界フライ級チャンピオン大場政夫。昭和四十八年、自家用スポーツカーを運転中、高速道路でトラックに衝突して死亡。 さらに「栄光のリングから留置場へ」「王座奪われ酒びたり。ポケットに五円玉一枚」「練習ボクサーが競馬でノミ行為」などの新聞記事が映し出されていた。 減量をやめた少年が、ラーメンをすすりながら、「ボクシングは所詮、貧乏人同士の殴り合いさ。一体何が面白いんだ」。映画の中で、そう、吐き捨てていた。
そしてボクシングは、危険であるとともにハングリーだ。それもまた、時代がどう変わろうと、覆ることはない。携帯電話を持ちながらロードワークする馬鹿はいない。もちろん携帯電話が貧乏で買えないといっているわけではない。テレビを付けながら受験勉強する奴は、受験に対してはハングリーではない、と言っているのだ。ハングリーとは、貧乏や欠落を埋めるものではなく、徹底的に無駄を削ぎ、理想の自己に向かう行為であるからだ。
現在でも、「腹ペコ」の意味でのハングリーは存在する。
<毎日毎日、スーパーマーケットの出口に座って、スーパーから出てくるおばさんの買い物袋を見ていた。何か食い物が落ちないだろうかと思っていたのだ。そうやってスーパーの前に座っていたとき、出てきたおばさんの買い物袋からてんぷらのかき揚げが落ちたことが一度だけあった。それをパッと拾ってすぐに水で洗ってふやけたかき揚げを直樹(弟)に食べさせた。>
(「ちくしょう魂」坂本博之/小学館文庫)
しかし、その坂本博之にしても、抑圧された暗い世界から、開かれた、ただただ明るい光にあこがれた。
<誰と誰の試合だったかも覚えていない。だがキラキラ光るそのシーンは、おれの心の奥に鮮烈に焼きついた。とにかくボクシングというスポーツの舞台の華やかさに惹かれた。>(同)。
つまり食うこと以上に、誰にも縛られない自由な光を求めたのだ、
だから、オレの云うハングリーとは、金が欲しい、食欲性欲を満たしたい、権力を持って威張りたい、などといったことではない。そんなハングリーならば、世界チャンピオンになって、少々は満たされるはずだから、もう、やる理由がなくなるだろう。
たとえば古城賢一郎というボクサーは、血の気が多く中学から暴れていて、高校入学後一週間で<来てもらっては困る>(『テンカウント』黒井克行/新潮社)という経歴で“最も怖い顔を持つボクサー”とも言われた。
実際、ヤクザ映画に出てくる柄の悪いチンピラが思い浮かぶ顔だ。そんな雑草ボクサーが、赤城というアマチュア出身のエリートボクサーを倒した。赤城のような存在に追いつけず、あるいは追い越され、ずっと踏みつけにされてきた男が、その最も嫌いなタイプのエリートボクサーを破りチャンピオンになったのだ。だがしかし翌日、トレーナーにこう告げた。<先生、引退します。>(同書)。
ハングリーとは、少々の欲望では持続しないものなのだ。じゃあ一体、何のために防衛するのだ。その理由は、己の理想、すなわち自分が何者なのかの原型を探るためである。
『荒野の歌』(福島泰樹/河出書房新社)では、著者が必要以上に、多くのボクサーが父親不在の家庭環境であることを、ハングリーに結び付けていて、読んでいて吐き気を覚える。そのくせ、減量中のボクサーを前に、取材に格好つけて、自分ひとりがビールを飲み、焼肉を食べている。そういう馬鹿まねをしないという態度が、ハングリーの第一歩だ。
ボクシングは自己表現だという。
<リングの上でボクシングをすることが、自分を表現することであり、知らない誰かを励ますメッセージになっている。>(「ちくしょう魂」坂本博之/小学館文庫)
確かに、そうだろう。オレもまた、この本の中にしかいない。口下手なボクサー以上に、説明の仕様がなく、慟哭のつづれ折りを、書いている。
しかし、出来るなら、なぜこういう発言をするのかについても書きたい。そこには背景があり、なぜこういうパンチを繰り出すのかにもまた、背景がある。オリンピックも、その一瞬の輝きとともに、勝ち負けを超えて、選手の背景としての四年間がある。その四年間を知りたいように、一発のパンチの膨大な背景をもまた知りたいのである。
「有名大学を出た二十いくつ(歳)の奴が、こっちは六十(歳)過ぎで、それでも学歴だか何だか理由は知らんけど、俺を“オイ、オイ”と馬鹿にして呼ぶのがいるだろう。そういう教育やら何やらに向かって、俺はこれなんだよ」そう言って、握り拳を見せる輪島功一。
ハングリーとは、自己表現であるし、自己とは、根源探しでもある。少々のエリートへの憧れや嫉妬では持続しない握り拳の背景。古城賢一郎ではない何か。それが己のルーツ探しである。たとえ異端であれ、自分自身の正体を正直に知りたい。
正統でなくてよい。正統でなくとも、光り輝く舞台で強く刻印ができ、そして学歴だろうが、正統だろうが、それがいかに脆いものかを体現するための、心身ともに注ぎ込む探求状態のことをハングリーと呼ぶのである。ボクシングはあくまでもハングリーなのだ。
ボクシングを始めることで、己探しにどんどんと入り込んでいった輪島。では、そのきっかけは何だったのだろうか。輪島がボクシングジムの門を叩いたその理由。
それは、ある感覚を取り戻そうとしたからだと思う。
オレが上京してきて、まず思ったのは、肉体疲労の実感なく「稼げる」ということであった。レンタルビデオ業界草創期のバブル時代で、しかも車に乗っていたせいもあるが、ビデオ店が、どんどんとオープンし、口八丁手八丁の営業で、筋肉はどんどん不要になった。
それまでオレのやった仕事といえば、一通りの肉体労働(地下鉄工事、ビル建設、ホテルの解体、温泉の配水管清掃、すし屋、餃子屋の小僧など)に、最後は、汗だくになりながら、「お焼き」を焼いていた。どれがどうと差はなく、原理は、昼に体から汗を出し、夜に体にビールを入れる。新陳代謝して生きて、そして死ぬ。それが基本であった。
だから、この「肉体的な負担が少なく稼げる」という経験は、ちょっと自分を戸惑わせた。頭を使っているんだから偉いんだ。というような何か思い込みが必要だった。そうでなければ、この給料は割に合っていない。心身のバランスが悪い。そう思った。
輪島もまたそう思ったはずだ。
輪島の数年前、後に“連続射殺魔”と世間を騒がすことになる永山則夫もまた集団就職で上京している。しかし、永山の勤めた世界は、フルーツパーラーを手始めに、板金修理工、米穀店、喫茶店、羽田空港のターミナルホテル、クリーニング店、牛乳販売店と、それまで育った環境に比べ、身体的過酷さよりは、精神的ストレスとかいったものの方が、比重を多く占める性質の仕事に永山の目には映ったはずだ。知的な頭脳労働ではなくとも、システム化されつつあった単純な労働は、田舎での飢えをしのぐ、直接肌にのしかかってくる労働とは根本から違ったはずだ。はっきり言えば、バランスの悪い身体労働なのだ。そこでつのった都市のイライラが、ピストルに走らせた、とは穿った見方であろうか。
オレ自身が今もって抱える、都市への不信感というか、信用の置けなさは、まさにそこにある。現代社会で生きる以上は、この気持ちの悪い感覚から逃れることは出来ないにしても、多少なりとも是正したい。物々交換的な労働をしたい。はっきりと声を出して人間の関係を結びたい。そのためにも、オレも毎日、腹筋や腕立ては、やり続けている。
輪島が三迫ジムの門を叩いたのも、それが理由である。
「東京に来て、まずは自動車修理工。八百円の給料だ。安いけど別に給料に不満はない。ただ仕事が、先輩方が全部やって、俺は何もないんだ。タイヤ磨いたり、部品洗ったり。それが理由で土木工事に行ったのよ」。輪島は普段、体をもてあましていたのだ。
「もっと体を動かしたくってね」
<北海道は日本一の稲作地帯である。日本一の収穫高、日本一の耕作規模、日本一の生産性、日本一の所得、いずれも北海道稲作農民が手にしているタイトルである。>(『農協』立花隆/朝日新聞社)
平成に入って「きらら397」と「ほしのゆめ」というスター米を出現させた北海道米は、しかし、かつては不味いことで有名であった。それが品種改良の末に、やっと美味しくなり始めた矢先の一九七〇年に、生産調整が開始される。つまり、休耕田にさせられて、お金の援助だけは「してもらえる」のである。
しかし補助金など要らないから、米を作っていたいという農家。輪島が仕事のほかに、なお三迫ジムを求めたのは、体を鈍らせたくなかったからだ。それは北海道時代の、体に直接に響くという「生きている実感」を、必死になって取り戻そうとしたのではなかったか。
輪島は、なまった体を、ボクシングにぶつけた。しかしスポーツとはいえ、そこにもまた、北海道で味わってきた肉体労働の心地よさとはまた別の、精神的な鬱屈をもたらす仕組みが存在していた。
北海道という遠い地方出身のハングリーは、そのシステムに向かってもまた、ぶつけて、あるいは溜め込んでいくことになるのである。
相手のボクサーとももちろん戦うのだが、それより以前に、ボクシング環境と、システムと、さらに世界戦の場合、相手の国との姑息な手段とも戦う。仕組みの複雑さと敷居の高さも問題であるが、ホームタウンデシジョン(地元有利裁定)にまつわる、あらゆる攻撃と妨害とも戦わなければイケないところに、次元の低さがある。
試合前のボクサーの手を潰したり、リングのコーナーに上がるファイティングロードの道すがら人込みの中からナイフで切りつける興行師もいる。試合直前ギリギリに着く長い飛行時間のチケットをよこしたり、ホテルから試合会場へ二時間もグルグルとタクシーで迂回されたり、試合を自由にストップされ、尚且つ、明らかに不正なジャッジ。 三七年、無敗のピストン堀口がジョー・イーグルに負けたときは、堀口のバックについていた山口組がジャッジに不備があると大騒ぎした。六四年七月、フラッシュ・エロルデは、蔵前国技館で小坂照男にTKO勝ちしたとき、木の棒で殴られた。小坂サイドは、五九年、日大講堂での杉森武夫(興伸ジム)戦でも、判定負けしたときに、レフェリーに暴行している。帝拳ジム側のヤクザの暴行であり、「生命が危険」と審判部全員辞任騒動となった。吉田勇作レフェリーは、外国でピストルを突きつけられた経験を語っている。井岡弘樹の短いゴングしかり。最近も、日本チャンピオン戦で、裁定不服のナイフ騒ぎがリング上であった。残念ながら、これがボクシングの一面であった。「機構」という壁の外で、無駄な血が流され、無用の戦いを強いられ、翻弄されてきたのだ。
『ボクサー回流~平仲明信と「沖縄」の10年』(山岡淳一郎/文藝春秋)という本がある。この本のキーワード。それは間違いなく「沖縄から世界へ」である。そしてこの「沖縄から世界へ」という言葉こそが、悲痛なる叫びであり、甘くまた苦いフレーズなのである。
沖縄はボクシング王国で、IBFを含め、世界チャンピオンを七人出し、都道府県別でもトップの人数を輩出しているのだが、「沖縄のジム」からは平仲明信ただ一人である。つまり、出身は沖縄、ジムは東京というのが実態なのである。
「世界戦」と言うのは、チャンピオンが、世界ランク一位から十位の選手十人のうちから好きな選手を選び、その選手を相手として対戦するものである(実際には、日本と東洋のタイトルは十位以内だが、WBAでは、十五位以内もOKとし、WBCは原則十位以内、特例で三十位以内と規則がぼやけてきた)。つまり十位以内に入れば、世界戦のチャンスがある。逆にいえば、いかに上位であっても、世界戦を組めずに、チャンピオンへの道を閉ざされたままと言うことである。したがってこの、実力者が対戦できない不利をなくすために、ランキング一位の者は、無条件にチャンピオンへの指名挑戦権がある。
平仲明信が狙っていたWBAでは、ヘビー級をのぞき九ヵ月に一回、ランク一位との指名試合が義務づけられていた。
果たして平仲は、その世界ランク一位になる。後は対戦を待つだけだ。寝てたって対戦できる。ところがだ。これがやはり焦らしに焦らされ、平仲自らが、アメリカにまで動き、騙され、WBAとJBCに翻弄され、東京と沖縄との往復を繰り返し、純粋な練習以外ですでに疲弊させられていたのである。なぜそうなるのかは、ボクシングの「機構」が前近代的で、選手を苦しめるシステムである、としか言いようがない。
ボクシングの問題点は、試合をJBC(財団法人・日本ボクシングコミッション)が主催するわけではないことだ。プロ野球は「社団法人・日本野球機構」が、大相撲は「財団法人・日本相撲教会」が、中央競馬は「JRA」が、地方競馬は「自治体」が、それぞれ主催しているが、ボクシングは大手のジム、或いは新聞社、もしくは弱小のジムが集団で、かつ他の企業の提供や後援も仰いで開催するから、どうしても興行のプロが中に入ったりする。テレビの放映とも結びついている帝拳、ヨネクラ、協栄、三迫の四大ジムが中心となって仕切る。結果として、地方のジムがマッチメイクできない。
沖縄がいかにボクサー王国だといっても、沖縄ジムの平仲明信は三年かかった。弟の平仲信敏は、筑豊ジムへ移籍した。
北海道では、世界戦への道は、さらに険しいのである。
「俺が今、ジムをやっている理由は、若い者を教育したいだけなのよ。世界チャンピオンを育てたいとか言ったって、今は無理なんだよ。帝拳、協栄、ヨネクラ、三迫、そういう大きなジムに、アマチュアチャンピオンが、強い奴が、みんな行っちまうんだよ。俺は入札でやれっていってるんだ。帝拳は最初、ジムとコミッションと両方をやってたんだ」。
不満を爆発させる輪島。
帝拳の小坂照男は五九年、日大講堂での杉森武夫(興伸ジム)戦で判定負けした。この時、ヤクザがレフェリーに暴行した。「生命が危険」と審判部全員辞任騒動となった。(「激動のスポーツ40年史④ボクシング」ボクシング・マガジン社)
輪島功一は現在、日本プロボクシング協会(JPBA)副会長で、東日本ボクシング協会会長でもある。しかしなお、大手ジムの中央集権に歯が立たない。
『リングサイド物語』(郡司信夫/ワールドマガジン社)には、こうある。山口組三代目組長となる田岡一雄も名門ジム不二拳にわらじを預けていた。巨人拳闘倶楽部は、映画化もされた自称「銀座警察」浦上信之の作ったジムである、と。
以下は、『ボクサー回流』からの引用だ。一面の事実ではあるだろう。
<あくどい興行師のなかには、人混みでボクサーの拳をナイフで傷つけるものもいる。>
<試合用にチャンピオン側が手配し、送ってきた航空券は、東京をたち、香港、サウジアラビアのリヤドで乗り換えてローマに着く、ダンピングチケットだった。その行程は、三十数時間を要した。(中略)強力なスポンサーを持たない沖縄ジムは、資金力にも乏しく、航空券さえ目前で手配するのは難しかった。>
ヤクザな成り立ちで始まったボクシング界。それでも言いたいことを言う輪島。
北海道も沖縄も、収奪されるだけのボクサー産地にはなりたくない。その体制を少しずつでも変えていこうとするのが地方、或いは部外者(外様)扱いされた者たちのハングリーである。
♪前を向いたら遅すぎたので、後ろを向いたら早すぎました。
青森出身の三上寛が謳う『誰を恨めばいいのでございましょうか』という歌だ。都会に出て来た三上寛の戸惑いがもろに出ている歌詞だ。青森もまたボクサー産地である。『ボクサー』という映画を撮るほどのボクシング狂であった詩人寺山修司も青森出身であり、三沢の米軍基地がまた多くのボクサーを生み出してもいる。
青森から上京した永山則夫は、都市のシステムにもまれる中、前後不覚となって、ピストルを手にし、悪に走り出す。永山の四年前に上京していた輪島功一。
その時代もまた<後に永山則夫を生み出す怨念の土壌を醸し出していた。>(「60年代が僕たちをつくった」小野民樹/洋泉社)。
どこにも落ち着く場所のない中で、特に優れた才能があるわけじゃなし、可愛い顔をしているわけでもなく、しかし、ひとり、誰も恨まず、環境も、時代も、悪い土地も、何もかも認めて、ただただ、ひたすら。美しい物語を刻んでいった輪島功一。
永山になる者もあれば、しかし或る者は、輪島になったのだ。
「東京出て来て、住込みで月八百円の給料だ。四百円使って四百円貯めてよ。俺は結構金は貯めるほうなんだ。それで欲しかった上着と腕時計を買って、映画館に入ったのよ。そこで悪い奴にトイレ連れ込まれて、時計と上着と金を取られたのよ。ラーメン食おうと思ってた金までもよ」。そこでグレないところが輪島の真骨頂だ。
「もっともっと金貯めようと思ったのよ。働かざるもの、食うべからずなんだよ」
西成区にいった事があるか。住んだことがあるか。
言葉の世界で生きてる奴が、その「言葉」を使って、何を語りたいのか。
言葉ではなしに実感を掴もうとするところで快哉を叫んできた連中に混じって、。「言葉」に引きずり込んで、亀田に向かって、一体何を言いたいのか。
「今時、貧乏なんて無い」とかいう裕福者どもよ。
堀江モンやむ村上ファンドじゃあるまいし、質問攻めにしてどうするのよ。
長野五輪で原田が大ジャンプを飛んだとき、団体メンバーからもれたライバルの葛西は、その時のことについてこう語った。
「はっきりいいましょうか。みんな落ちろ! と思いましたね」
そういうことばかり語らせて、そうして今度は、鬼の首でもとったようにバッシングかい。
ジャッジの二人に聞けばいい。WBCのときの球審。ドウィエに勝たせた審判。
あるいはⅤ9中のセ・リーグの審判。立派な事をいうよ。
問題なのは、千葉すずを目の敵にしたフジヤマのトビウオとか、カズを外した岡ちゃんとか、仁志外しのあとは、今度は二岡に八つ当たりする男とか、安藤を強引に入れた城田とか・・・。
米倉宝二は、東京オリンピックにL・ウェルター級で出たボクシング選手だ。のち高橋組組員となって拳銃密輸に関わり逮捕。のち出所後再び逮捕されるも、八一年にカリフォルニア・ロンボック連邦刑務所を脱獄した(「脱獄記」JICC出版)。
拳闘が暴力に即、結びつくわけではないが、猥雑な匂いが漂っている。
二〇〇二年、東京国税局に申告漏れを指摘された「五木プロモーション」は五木ひろしの芸能プロダクションだが、元々は「野口プロモーション」所属であった。二億円を払って独立した。野口プロとは、もちろん野口ジムの野口である。
五木ひろしが「夜空」で、レコード大賞を取ったのは七三年。視聴率がピークに達した年だ。その数字四十七・八%。最も華やかな時代だった。伸び続けた視聴率は、翌年から下降を始める。野球が、一九五八年という長島入団の年に熱狂を提供し、引退の前年である七三年の巨人九連覇までの寿命であったなら、その間に、歌謡曲もまた、いわゆる大衆に最も愛された時代を経験する。輪島功一もこの年MVPを受賞。ハイセイコー、江川卓、相撲の輪島、キックボクシングの沢村忠、そして「野口プロモーション」。五木のレコード大賞には、野口所属の沢村忠が駆けつけた。
タイの国技であるタイ式ボクシング(キックボクシング)を日本に紹介し、ボクシング界に貢献した野口修は、もちろん野口ジムの会長である。野口プロモーションは、一九七二年、野口修社長の実弟恭をバンコクに派遣し、「野口キックボクシング・ジム」を開設。だが名称が悪かった。「キックボクシングジム」。これではタイ人は納得しない。「タイの国技を汚す」。同ジムにはピストルが撃ち込まれた。野口社長も関係者に殴られ、タイの新聞「タイ・ラット」もキャンペーンを始めた。日本製品不買運動が起きる。結局撤退した。ジム開き前日に開店したタイ大丸デパートでは、この騒動で爆弾予告もされた。
六四年七月、フラッシュ・エロルデは、蔵前国技館で小坂照男にTKO勝ちしたとき、木の棒で殴られた。王貞治も甲子園球場で試合後にファンから下駄で殴られたが、この場合はちょっと違う。小坂サイドは、五九年、日大講堂での杉森武夫(興伸ジム)戦でも、判定負けしたときに、レフェリーに暴行している。帝拳ジム側のヤクザの暴行であり、「生命が危険」と審判部全員辞任騒動となった。三七年、無敗のピストン堀口がジョー・イーグルに負けたときは、堀口のバックについていた山口組がジャッジに不備があると大騒ぎした。吉田勇作レフェリーは、外国でピストルを突きつけられた経験を語っている。実際、ワールドカップで得点を許したゴールキーパーが射殺されたりするのがスポーツだ。
韓国では金東聖(キム・ドンスン)が、二〇〇二年ソルトレークシティー冬季五輪で金メダルを取り消された。米国のアポロ・アントン・オーノにメダルがわたるのだが、これによりアメリカ製品ボイコット運動が起きる。短い井岡弘樹のゴングしかり。「世界一の銀メダル」篠原信一の「内股すかし」しかり。山下康裕の猛抗議。これがスポーツだ。
北海道のやくざの歴史もまた、一人のボクサーから始まっている。岩見沢生まれの長岡宗一だ。米軍基地で「ジャッキー長岡」のリングネームで戦っていたが、二十歳の時、「雁木のバラ」こと荏原哲夫の舎弟となる。以後、「北海のライオン」こと石間春夫と砂川の谷内二三男と三人で五分の盃を交わし、「
北海道同志会」を結成する。これが祖国へ帰りそびれた在日朝鮮人柳川次郎率いる「殺しの軍団」三代目山口組二代目柳川組の北海道支部となる。柳川組が山口組から絶縁となって、七〇年一旦は関係が切れるも、八五年に石間が山口組直参組長となった。ワシがちょうど大阪に住んでいたこの八五年は、山口組四代目組長竹中正久射殺事件以後、分裂した一和会との抗争の真っ只中であった。Vシネマ『北海道やくざ戦争・絶縁』二部作は、哀川翔がジャッキーを演じ、永沢俊矢がライオン、武蔵拳が谷内を演じている。谷内二三男は九〇年ヒットマンの凶弾に散った。
Ⅴシネマが、こういった世界を描けるのは、かつて東映がそうであったように、密接な繋がりがあるからである。山口組三代目組長の葬儀で、<スターのひとり田端義夫は、「五〇年代後半から七〇年代後半にかけて、田岡の世話にならなかった芸能人が日本にいるだろうか」と語った。>(「ヤクザ」D・E・カフラン、A・デュプロ/第三書館)
だが俳優は俳優、ボクサーはボクサー、哀川翔主演の人気ヤクザ映画シリーズ『修羅のみち』に、北海道出身歌手の細川たかしが出ている。演歌とボクシングとヤクザと三題噺みたいだが、「宴会部長」と言われる細川は、しっかりと演技し、飄々と、有象無象の世界を泳ぎきっている。これは、輪島功一も同じで、妙なズレ加減でもって、杓子定規の堅気の世界は笑いのめし、規律の緩い無法地帯では、きっちりとプロの芸を発揮する。それら猥雑なパワーの源は、まさに、かつてのボクシングその中にあった。
そして今も、こんな形で顔を出すとは、天晴れだ。
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