駒大苫小牧、こぼれ話。
野球は、一八三九年ニューヨーク州クーパーズタウンで誕生と公式発表したのは、一九〇七年の「野球起源調査委員会」でのことだが、今では実際には怪しい。
ニューヨークシティのマンハッタン島からハドソン・リバーをはさんで対岸のホーボーケンという場所こそが、野球発祥地であるとの、話がどうやら有力のようだ。
ホーボーケンの空き地で、アレキサンダー・ジョイ・カートライトという人が、消防団員の運動不足解消のため「ニッカボッカーズ」というチームを作って練習していた
一八四六年六月十九日に、ホボーケンのエリージャン・フィールドで、ニッカボッカーズ・クラブはニューヨークのチームと対戦した。これをベースボールの発祥とする説である。したがって、野球誕生160年ということか。
そしてベースボールの日本上陸133年、ロック誕生51年、歌舞伎403年、オペラが409年。
映画もまた100年が過ぎた(1897年にリュミエール兄弟の撮影した『駅に到着する列車』を最初の「映画」とするから109年という事になる)。
シネコン建設増加の影響で、国内映画館のスクリーン数が、先月、三〇〇〇を突破したようだ。一九七〇年以来三十六年ぶりのことだという。
それだけ映画の数が多いのかといえば、それもある。がしかし、それぞれの作品が満遍なく封切られているわけではなく、大作が沢山の映画館を必要としていて、その他の中小作品は、むしろ締め出されているのが現状だ。
日本では映画が年間幾つ作られているのか。
この本数は実際、以前よりも破格に多い。35ミリやスーパー16でなくとも、小さなカメラでビデオ撮り、その他カメラだけでなくスタッフも軽量化・ハンディ化が進んだ結果である。自主映画、ギター1本で、フォーク歌手が隆盛したように、映像作家が急増している。
二〇〇五年の劇場公開本数だけで三百五十六本(映連発表)。待機中の映画が百本近いとも言われており、公開せずにVシネマとしていきなりリリースした作品が、約二百本。
だから大学での映画のゼミ、講座、映画学校、専門学校、通信講座まで含め、大変な「学校」ブームである。その影響で、私の友人も、あっちこっち、狩り出され、毎週どこかで教えていて、掛け持ちの人もまた結構いて、それで食べている人も多い。
映画を撮るよりも、お前は映画を教えて儲けるほうが専業なのか?? と、酒場で真剣に議論してる風景も最近はよく目にするが、撮るほうは厳しく、教えるほうは(一見)ぬるま湯が広がっているように見える。
私のところには(もちろん)何の要請も来ないひがみにも聴こえるかもしれない。
そんな事はないのだけれど、まあ、自分で弁明しても仕方がない。
Vシネマの次は、「ネットシネマ」だという事で、これも、映画学校並みのブームで、沢山作られている。今のところ、お金を出す会社(IT関連)が、試験的にリスクの範囲内で出しているだけで、これは淘汰されると思う。
映画学校の乱立は、ビデオやパソコンなどで誰でも映画を撮れる状況が出来てきているのに、かつてあった大手映画会社の「撮影所」という養成期間システムが崩壊してしまったことが原因だ。
文化庁は、日本映画および映像の支援プランを打ち出し、人材育成に乗り出し、二〇〇五年には、日本では初めての国立映画大学(東京藝術大学大学院映像研究科)が設立された。
映画の黄金時代(昭和三十五年前後まで)と、そのイメージを引きずって映画を目指す人々が、映画の世界で活躍した時代(1971年まで??)というのは、まさに人材の宝庫であった。
映画勃興期というのは、俳優といえば、、歌舞伎の中でも食いっぱぐれや異端な人物が、映画に追い出された形で活路を見出したのであり、また監督も、(画家の夢を諦めた)黒澤明初めほとんど高学歴な人ではない変わり者の寄り道場所であった。
人気とその作品力で、映画界はしだいに才能が集うようになり、就職する場所として、特に大手映画会社は、最難関となった。
「東大を出たからって」とは、よく巷で言われるが、実際、そう語る人が身近に東大の卒業生を見知っているのかといえば、たいていはイメージの話でしかない。
知っていれば親近感からそういわせないと思うのだが、知らないからこそ、そういう言葉を使うのでもある。
東大卒を、あえて基準にするわけではないが、目安にはなる。
監督では当初、牛原虚彦ぐらいしかいなかった東大卒は、俳優から監督に転じた山村聰あたりから、すごい数となってくる。家城巳代治、今井正、中村登、堀川弘通、増村保造、瀬川昌治、中平康、野村孝、渡辺裕介、白鳥信一、高橋治、須川栄三、山田洋次、藤田敏八、佐藤純彌、中島貞夫、降旗康男と、とにかく一九三六年生まれの小平裕までは、随分といっぱいいた。松本俊夫のようにはじめは東大医学部に入学したという変わり種もいる。
しかし以後の東大出身は、長谷川和彦、中原俊、那須博之の三人ぐらいで、今度は、日大芸術学部出身、或いは早稲田出身の怒涛の時代となった。
文化庁には芸術家海外派遣制度という公費で留学させる制度がある。『女囚さそり』シリーズの伊藤俊也はアメリカへ、『リング』の中田秀夫は、イギリスへといっている。二人とも、今時の映画界ではむしろ珍しい東大出身だ。
そして今は、日芸を出ても更に日本映画学校を入りなおすというように、とにかく実作して学ぶ場所(撮影所)がないだけに、一見、映画が開かれているようで、ひどく閉じている。本当はお先真っ暗な世界である。
立大・現代心理学部映像身体学科、大阪芸大・映像学科、九大・芸術工学部画像設計学科、京都造形芸大・芸術学部・舞台芸術学科映像芸術コースなど、大学はむしろ実作よりも理論や映画史などを学び、だから、蓮實的な映画評論が跋扈する結果にもつながっている。
前振りが長くなったけど、そんな中、友人の講義を見に行った。
昔から怪しい芸能プロダクションばかりなのが芸能界であり、そのなかから間違って急成長し勝ち残ったものが作り上げているだけの映画界なのだから、何を見ても驚かないが、それでもこの講義には驚いた。
専門学校がよく潰れる話は耳にするが、映画学校もネットシネマも、淘汰されていくのだろう。
その日は生徒が二人だった。友人は二人に向かって教えるのだが、私も同じ側に座っているから、なんと言うか講師側が二人みたいな格好だ。2対2のマンツーマン指導かよ、とつっこみを入れるわけにも行かず、採算赤字の授業を見て帰ってきた。
なんか、生ぬるくて寒い風にあった気持ちだった。
知り合いの(というより私の最初の本の)出版社社長が先月、選挙に出た。基地問題でもめている岩国市長選挙だ。
結果は、以下の通り。
井原勝介(55無所属新) 54,144
味村太郎(38無所属新自民)23,264
田中清行(49無所属新) 1,480
高田がん(古くてわからない?)、羽柴秀吉(これも知らないか?)、結局は泡沫候補だったのか。
何かがっかりした。
告示2日前に出馬表明し、岩国の矜持(きょうじ)を示したいと語った。
上智大を卒業後、マグロ漁船に乗り込み、船内の喧嘩で歯を四本折られながらも、そこで稼いだ給料を元手に出版社を興した男だ。その出版社(四谷ラウンド)で、赤字の中、なおも母校(上智大)のミニコミを応援して、出版を手伝い、上智大のシャワーを借りて、会社に寝泊りして仕事をしていた。借金のお願いに、深夜バスで、日本全国突然の訪問をし何とか乗り切ったり失敗したりで、無銭飲食まがいや、地下鉄改札機スーパー通過など、せこい武勇伝を数々持っていて、それでも、その真剣で誠実なところが私は好きだった。
でも一四八〇票は、生徒が二人のゼミみたいだ。
先月、札幌の友人が、駒苫の田中の練習見てきたとメールがあった。<肩痛めているのか、モチベーションが落ちているのか・・・昨夏の迫力感じません。ちょっとピンチです>とのこと。
その駒大苫小牧、順調に久々の公式戦を10-0で、勝ち連勝を三十にした。
今やっている大会は道大会で、関東でも関東大会が行われている、横浜も銚子商に順当に10-4で勝っている。
これは、夏の甲子園の予選ではない。この大会のすぐ後に夏の予選が始まる。
つまり、高校野球の大きな大会は、1、この地方対会。2、夏の甲子園。3、その後の国体。4、神宮大会(新人戦といい、これが結局は春のセンバツの目安となる)。
以上四つある。
それら公式戦とは関係なく、練習試合が行なわれる。
我がふるさとの真狩高校が、偶然の産物で、この駒大苫小牧と対戦した。
5月13日、全道大会の直前の日曜日だ。
【駒大苫小牧高校野球部を応援するblog】http://plaza.rakuten.co.jp/chiryu11という、駒大苫小牧関係では一番情報量があると思えるサイトがあるのだが、そこにもさすがにこの結果は報告されていない。
一体どういう結果だったのか。
温情か、サービスかは知らないが、田中大が、初回の1イニングを投げたそうだ。
2回からは交代。駒大打線も全員が入れ替わり、3軍選手まで出たようだ。初回に9点、2回にも9点、結局47-0だったそうだ。真狩高校は9人しか部員がいないと聞く。
よくやったというか、やはりそんな試合でも見たかった。1安打で零封された。
その真狩もまた全道大会に出場した。
蘭越高校相手の1回戦、1-21の大敗だった。
一四八〇票、二人だけの授業、0-47・・・
もっとも、ニューヨークの「ニッカボッカーズ」もまた、世界最初の(巻頭に書いた)試合では、1-23の大敗であった。
それでも始まったベースボール。
二人からでもはじめよう。
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