« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月17日 (水)

駒大苫小牧、こぼれ話。

野球は、一八三九年ニューヨーク州クーパーズタウンで誕生と公式発表したのは、一九〇七年の「野球起源調査委員会」でのことだが、今では実際には怪しい。

ニューヨークシティのマンハッタン島からハドソン・リバーをはさんで対岸のホーボーケンという場所こそが、野球発祥地であるとの、話がどうやら有力のようだ。

ホーボーケンの空き地で、アレキサンダー・ジョイ・カートライトという人が、消防団員の運動不足解消のため「ニッカボッカーズ」というチームを作って練習していた

一八四六年六月十九日に、ホボーケンのエリージャン・フィールドで、ニッカボッカーズ・クラブはニューヨークのチームと対戦した。これをベースボールの発祥とする説である。したがって、野球誕生160年ということか。

そしてベースボールの日本上陸133年、ロック誕生51年、歌舞伎403年、オペラが409年。

映画もまた100年が過ぎた(1897年にリュミエール兄弟の撮影した『駅に到着する列車』を最初の「映画」とするから109年という事になる)。

シネコン建設増加の影響で、国内映画館のスクリーン数が、先月、三〇〇〇を突破したようだ。一九七〇年以来三十六年ぶりのことだという。

それだけ映画の数が多いのかといえば、それもある。がしかし、それぞれの作品が満遍なく封切られているわけではなく、大作が沢山の映画館を必要としていて、その他の中小作品は、むしろ締め出されているのが現状だ。

日本では映画が年間幾つ作られているのか。

この本数は実際、以前よりも破格に多い。35ミリやスーパー16でなくとも、小さなカメラでビデオ撮り、その他カメラだけでなくスタッフも軽量化・ハンディ化が進んだ結果である。自主映画、ギター1本で、フォーク歌手が隆盛したように、映像作家が急増している。

二〇〇五年の劇場公開本数だけで三百五十六本(映連発表)。待機中の映画が百本近いとも言われており、公開せずにVシネマとしていきなりリリースした作品が、約二百本。

だから大学での映画のゼミ、講座、映画学校、専門学校、通信講座まで含め、大変な「学校」ブームである。その影響で、私の友人も、あっちこっち、狩り出され、毎週どこかで教えていて、掛け持ちの人もまた結構いて、それで食べている人も多い。

映画を撮るよりも、お前は映画を教えて儲けるほうが専業なのか?? と、酒場で真剣に議論してる風景も最近はよく目にするが、撮るほうは厳しく、教えるほうは(一見)ぬるま湯が広がっているように見える。

私のところには(もちろん)何の要請も来ないひがみにも聴こえるかもしれない。

そんな事はないのだけれど、まあ、自分で弁明しても仕方がない。

Vシネマの次は、「ネットシネマ」だという事で、これも、映画学校並みのブームで、沢山作られている。今のところ、お金を出す会社(IT関連)が、試験的にリスクの範囲内で出しているだけで、これは淘汰されると思う。

映画学校の乱立は、ビデオやパソコンなどで誰でも映画を撮れる状況が出来てきているのに、かつてあった大手映画会社の「撮影所」という養成期間システムが崩壊してしまったことが原因だ。

文化庁は、日本映画および映像の支援プランを打ち出し、人材育成に乗り出し、二〇〇五年には、日本では初めての国立映画大学(東京藝術大学大学院映像研究科)が設立された。

映画の黄金時代(昭和三十五年前後まで)と、そのイメージを引きずって映画を目指す人々が、映画の世界で活躍した時代(1971年まで??)というのは、まさに人材の宝庫であった。

映画勃興期というのは、俳優といえば、、歌舞伎の中でも食いっぱぐれや異端な人物が、映画に追い出された形で活路を見出したのであり、また監督も、(画家の夢を諦めた)黒澤明初めほとんど高学歴な人ではない変わり者の寄り道場所であった。

人気とその作品力で、映画界はしだいに才能が集うようになり、就職する場所として、特に大手映画会社は、最難関となった。

「東大を出たからって」とは、よく巷で言われるが、実際、そう語る人が身近に東大の卒業生を見知っているのかといえば、たいていはイメージの話でしかない。

知っていれば親近感からそういわせないと思うのだが、知らないからこそ、そういう言葉を使うのでもある。

東大卒を、あえて基準にするわけではないが、目安にはなる。

監督では当初、牛原虚彦ぐらいしかいなかった東大卒は、俳優から監督に転じた山村聰あたりから、すごい数となってくる。家城巳代治、今井正、中村登、堀川弘通、増村保造、瀬川昌治、中平康、野村孝、渡辺裕介、白鳥信一、高橋治、須川栄三、山田洋次、藤田敏八、佐藤純彌、中島貞夫、降旗康男と、とにかく一九三六年生まれの小平裕までは、随分といっぱいいた。松本俊夫のようにはじめは東大医学部に入学したという変わり種もいる。

しかし以後の東大出身は、長谷川和彦、中原俊、那須博之の三人ぐらいで、今度は、日大芸術学部出身、或いは早稲田出身の怒涛の時代となった。

文化庁には芸術家海外派遣制度という公費で留学させる制度がある。『女囚さそり』シリーズの伊藤俊也はアメリカへ、『リング』の中田秀夫は、イギリスへといっている。二人とも、今時の映画界ではむしろ珍しい東大出身だ。

そして今は、日芸を出ても更に日本映画学校を入りなおすというように、とにかく実作して学ぶ場所(撮影所)がないだけに、一見、映画が開かれているようで、ひどく閉じている。本当はお先真っ暗な世界である。

立大・現代心理学部映像身体学科、大阪芸大・映像学科、九大・芸術工学部画像設計学科、京都造形芸大・芸術学部・舞台芸術学科映像芸術コースなど、大学はむしろ実作よりも理論や映画史などを学び、だから、蓮實的な映画評論が跋扈する結果にもつながっている。

前振りが長くなったけど、そんな中、友人の講義を見に行った。

昔から怪しい芸能プロダクションばかりなのが芸能界であり、そのなかから間違って急成長し勝ち残ったものが作り上げているだけの映画界なのだから、何を見ても驚かないが、それでもこの講義には驚いた。

専門学校がよく潰れる話は耳にするが、映画学校もネットシネマも、淘汰されていくのだろう。

その日は生徒が二人だった。友人は二人に向かって教えるのだが、私も同じ側に座っているから、なんと言うか講師側が二人みたいな格好だ。2対2のマンツーマン指導かよ、とつっこみを入れるわけにも行かず、採算赤字の授業を見て帰ってきた。

なんか、生ぬるくて寒い風にあった気持ちだった。

知り合いの(というより私の最初の本の)出版社社長が先月、選挙に出た。基地問題でもめている岩国市長選挙だ。

結果は、以下の通り。

井原勝介(55無所属新)  54,144

味村太郎(38無所属新自民)23,264

田中清行(49無所属新)   1,480

高田がん(古くてわからない?)、羽柴秀吉(これも知らないか?)、結局は泡沫候補だったのか。

何かがっかりした。

告示2日前に出馬表明し、岩国の矜持(きょうじ)を示したいと語った。
上智大を卒業後、マグロ漁船に乗り込み、船内の喧嘩で歯を四本折られながらも、そこで稼いだ給料を元手に出版社を興した男だ。その出版社(四谷ラウンド)で、赤字の中、なおも母校(上智大)のミニコミを応援して、出版を手伝い、上智大のシャワーを借りて、会社に寝泊りして仕事をしていた。借金のお願いに、深夜バスで、日本全国突然の訪問をし何とか乗り切ったり失敗したりで、無銭飲食まがいや、地下鉄改札機スーパー通過など、せこい武勇伝を数々持っていて、それでも、その真剣で誠実なところが私は好きだった。

でも一四八〇票は、生徒が二人のゼミみたいだ。

先月、札幌の友人が、駒苫の田中の練習見てきたとメールがあった。<肩痛めているのか、モチベーションが落ちているのか・・・昨夏の迫力感じません。ちょっとピンチです>とのこと。

その駒大苫小牧、順調に久々の公式戦を10-0で、勝ち連勝を三十にした。

今やっている大会は道大会で、関東でも関東大会が行われている、横浜も銚子商に順当に10-4で勝っている。

これは、夏の甲子園の予選ではない。この大会のすぐ後に夏の予選が始まる。

つまり、高校野球の大きな大会は、1、この地方対会。2、夏の甲子園。3、その後の国体。4、神宮大会(新人戦といい、これが結局は春のセンバツの目安となる)。

以上四つある。

それら公式戦とは関係なく、練習試合が行なわれる。

我がふるさとの真狩高校が、偶然の産物で、この駒大苫小牧と対戦した。

5月13日、全道大会の直前の日曜日だ。

【駒大苫小牧高校野球部を応援するblog】http://plaza.rakuten.co.jp/chiryu11という、駒大苫小牧関係では一番情報量があると思えるサイトがあるのだが、そこにもさすがにこの結果は報告されていない。

一体どういう結果だったのか。

温情か、サービスかは知らないが、田中大が、初回の1イニングを投げたそうだ。

2回からは交代。駒大打線も全員が入れ替わり、3軍選手まで出たようだ。初回に9点、2回にも9点、結局47-0だったそうだ。真狩高校は9人しか部員がいないと聞く。

よくやったというか、やはりそんな試合でも見たかった。1安打で零封された。

その真狩もまた全道大会に出場した。

蘭越高校相手の1回戦、1-21の大敗だった。

一四八〇票、二人だけの授業、0-47・・・

もっとも、ニューヨークの「ニッカボッカーズ」もまた、世界最初の(巻頭に書いた)試合では、1-23の大敗であった。

それでも始まったベースボール。

二人からでもはじめよう。

|

2006年5月15日 (月)

日米野球、或いは女子野球

ゴジラ松井が怪我をした。

それに対するチームメートやニューヨーク市民の反応が暖かい。

随分と一人の男の立ち居振る舞いが、状況を変えたものだと感心するし、尊敬もする。

でも私の愛したヤンキースからは、いつの間にか離れている。

今はキャプテン・ジーターただ一人が面白いし、カッコイイし、ヤンキースというチームを見させてくれる。

ジオンビーも、A・ロッドも一体どうしたんだ。ヤンキースに加入すると同時に皆おとなしくなってしまった。ショートをジーターに簡単に譲るのかよ? デーモンもそうだ。

ヤンキースの紳士然としたおとなしさとは裏腹に、レッドソックスの荒々しさが返って目立って、それがゆえに伝統の一戦が今「見るに値する」。

松井がグラウンドから消えて、日本人選手のでないチーム同士の戦いが、BSでも民放でも映された。もちろん松井が出る予定を見越して放映権を買っていた結果だろうけれど、それでも面白かった。ジーターがいるからだ。

ヤンキースは、松井の代わりをどこかから補強することなく、松井の「帰り」を待つという。そんなチームだったのかよ? ジオンビーが故障したら、平気でマリナーズからオルルッドを控えとしてとってきて使い捨てにしていたではないか。

確か少年隊の東が司会をやっていたスポーツドキュメントだった。読売ジャイアンツの二軍選手たちの日常を追ったものを見た記憶がある。

よく、昔から「読売でなくて、他のチームなら控えでなくレギュラーなのに」という文句がある。層の厚さも意味するけれど、ドラフト1位の『お約束レギュラー』を固定したままなかなか変えないチームという意味もある。その成果、ドラフト下位やドラフト外で入った陽の目を見ない選手たちは、一丸となって優勝球団にいる喜びよりも、メンバーに加わる、そこで結果を残す、ただその一点しか目先にはないのが本音としてある。そういうチーム内での戦いを強いられている。

だから、自分の球団の一軍選手が、テレビで怪我をしたシーンでは、二軍選手たちが歓声を挙げていた。ウォーッ。自分たちの誰かに一軍入りのチャンスが回ってくる事を意味するからだ。

そのドキュメントでは、実際、二軍選手たちが飛び上がっていた。

<当時、ジャイアンツのファームは毎年のように優勝していました。井上(真二)さん、四條(稔)さん、後藤(孝志)、それに僕。こんなメンバーが試合に出ていたんですけど、みんな、上に上がっては跳ね返されて、また下に戻ってくるっていう感じでした。結局僕らが一軍に上がるためには、誰かが上から落ちてこなけりゃいけない。でもその「落ちてくる人」が、ほとんどいないわけです。あるとしたらケガしかない。当時の一軍は本当に充実していて、僕が入団した年なんか、9月のアタマに優勝が決まってしまうくらい強かったですから。こうなると僕らが打ちまくって毎年ファームで勝っても、誰かがケガしない限りは上に行けない。そういう感覚は僕だけじゃなく、みんな持っていたと思うんです。>(『元・巨人』矢崎良一/廣済堂文庫。話者は、90年にドラフト1位でジャイアンツに入団した大森剛。生涯打率.149で引退。)

そんなチームで生きてきて、「帰りを待っていてくれる」ってどういうことよ。

日本で唯一、浪花節ではないところに徹して、ベースボールをいち早く取り入れて、違う野球を一人やっていて、V9を達成したチームで、そのチームから本場に渡った男が、今度は、その真っ只中に浪花節を持ち込んだのだろうか。

ヨーロッパサッカーとブラジルサッカーが違うように、日本野球とアメリカのベースボールと、中南米のベースボールとは明らかに違う。

昨日TBSの番組『世界遺産』を見ていたら、メキシコの古代マヤ文明で既に「やきゅう(ベースボール)」らしきものが行われていたとナレーションは語っていた。

二チームに分かれ、ゴムのボールを投げて、棒で打ち合う。その際の目標は、遠くにある穴だ。凱旋門(パリの凱旋門でもローマの奴でもいいけど)を思い浮かべてほしい。凱旋門の小さめの形で、門の部分は更に小さくした岩穴をめがけて打つのだ。

ペドロ・マルチネスや、マニー・ラミレスの様な、今のヤンキースには見られない遺伝子を、その大地に見た思いがした。

そういえば、ヤンキースからおん出たキューバのコントレラスは、今のところメジャー1の安定感ではなかろうか。自由にやらせればいい。

そう思った。

しかし、中南米は、WBCの決勝で当たったキューバの様な纏め上げ方もしてくるけれども、選手個々の身体能力の高さの割には(高いからこそかも知れぬが)雑だ。悪い言葉で言えば、頭が悪い。

そして、アメリカにも、中南米以上のバカが、いる。そのいい例が、マリナーズの監督だ。顔を見ればわかるではないか。その証拠にというか、イツまで使い続けるのか、四番の木偶の坊セクソン。70年代なら、日本のリーグ5位か6位に低迷するチームが、獲得金額の少なさと、スカウトの無駄足によって、間違って取ってきて、仕方なくシーズン終了までの契約を満了してしまう、そういう選手だ。確かにいた。いかにもいた。だけどもう日本の野球界も、こういう選手を取るほどバカではないし、だまされる事も無い。

なのに、おっさん、メジャーで、使い続けるのかよ。

セクソンは昨日、延長で決勝の本塁打を打った。

あ、もうだめだ、と思った。

セクソンとマリナーズは心中するな。最後まで四番で最下位決定だ。

監督を代えろ!!!

イチローも去年チームを批判していたが、問題は監督だ。

あほだ。モイヤーも、もう限界の癖に、城島に難癖つけたら、このおっさん、ベテラン・モイヤーに殉じてリベラ(捕手)を起用する。ダメだ、このチームは。

去年の野茂、そしてランディ・ジョンソンだって、今年からガタが来ているではないか。桑田しかり。野口しかり。

長年磐石だったリベラ(ヤンキース抑え)でさえも、金属疲労が見られる。

クレメンスとは違うんだ。

名前の通り、モーイーヤだよ。

メジャーの豪快な野球がしかし、一方で日本に波及しているのかもしれないと、少し面白いのが日本のプロ野球だ。

西武は松坂で逆転勝ちした翌日、又も読売を逆転して豪快に、まるでメジャーみたいに勝った。

四回裏0-3とリードされた西武の攻撃は1死の後、七番指名打者江藤2塁打。

次打者八番捕手の野田。初球から打って今季初ヒットを記録。次打者栗山も初球をヒットで1点返す。さらに1番の片岡も初球から積極的に打っていき、ファール、空振り、ファール、ボールの後の5球目を2塁打する。同点だ。そして2死1・2塁となって四番カブレラに回る。初球いきなり本塁打性の大ファール。1回に1死1・2塁の反撃機に0-3の四球目で、打って出たカブレラ。先発のグローバーは、いつもどおりの援護点を貰ったにもかかわらず、ヒット、死球と荒れていて四球の可能性も高かったはずだが、平気で見逃すことなく、打って出たカブレラ。またしても初球から振って行き、結局ほとんど本塁打の様な高く上がったフェンスに上からカスッテ当たる大2塁打。1塁までゆっくりと歩きながら放物線を見ていたカブレラ。その直後の5番和田がまた初球をたたき、カブレラがホームインで6-3となった。なんと次の石井も初球をヒット。更に次の江藤も初球から狙って惜しくも本塁打性のファール。

とにかく、初球、初球、初球をたたいた西武。

結局内野安打で満塁となり、次の野田がまたしても初球から打っていった。

これがパ・リーグの野球だ。メジャーみたいな野球。大体が野球というのは1イニングで大量点を取って勝つものだ。それを少しずつバントで送って1点ずつ加点して、勝とうなんてのはセオリーでもなんでもない。そのことで追い詰められたり、敗戦ムードを感じるチームがあったとしたら、それは、むしろそういう戦法を取るチーム自身でしかない。だって一度に大量点がいつでも入るかもしれないチームなら、少々の加点をわざわざアウトを増やして危険を冒してくれるわけだから、恐くもなんともないし、もっと点が入ったかも知れないところを、1点か2点の加点ですんでいるわけだから、かえって、嬉しい限りである。ばかばかしい。

ところがダ。その翌日、西武は、送りバントをしているのだ。

6-6で迎えた、七回裏の無死1塁で、3番の中島にバントさせたのだ。あほか。今、日本球界屈指の強烈なクリーンアップトリオ。3割をマークして、不動の3番を獲得している中島。しかも4番5番が、カブレラと和田という、むしろ長打の選手であり、アウトを一つ増やしてまで、セカンドにいなければならない理由は無い。

1塁にいたって、帰ってこれる確率の高い打者2人だ。

だがしかし、

前日のアメリカンな野球から、急に日本野球に戻っている。

結局中島はバント失敗のフライでアウト。たまたまカブは単打となったが、つまりランナーを二塁に送っていたならホームイン出来たではないか、と反論されそうだが、1・3塁で一体何が悪いのよ。

何か日本の「送ってプレッシャーをかける」という野球の意味が分からない。

ゴジラ松井の怪我から随分と話が流れてしまったが、リーグや国で考え方が違うのと同様に、女と男でも野球観は随分と違うであろう。

今そのことで、入り口で頭を痛めているのである。

もちろん女子野球の話だ。

|

2006年5月 5日 (金)

女子野球⑤腸ねん転その2

二〇〇六年の正月、日本映画でブッチギリの大ヒットを記録したのは、『男たちの大和/YAMATO』という戦争映画であった。公開十二日目で百万人を突破した。これは製作会社、東映の歴史上最速記録である。 

初日・2日目の成績が、動員二十六万五千人と同社(東映)の大ヒット作『鉄道員(ぽっぽや)』対比150%であり、「鉄道員」の最終興収が三十七億円から、最終的には五十億円以上の興行収入予想も立てられ鼻息は荒かった。結局あと一歩に迫る大健闘であった。 

この映画、角川春樹事務所と東映との久しぶりのコラボレーションである。

角川春樹事務所は、もともとは、第1回製作作品(『犬神家の一族』)を東宝から配給したが、第2作の『人間の証明』から東映配給とした。のち再び東宝となり、またもや、『人間の証明』の監督佐藤純彌が、『男たちの大和』のメガホンを取る(監督をする)こととなって、この東映=角川コンビが帰ってきたという事も出来る。

しかしそこにたるまでには紆余曲折があった。角川と東映とのねじれ現象とも言われた。腸捻転である。

角川春樹事務所は、そもそもは角川書店の別部門で、映画制作にも乗り出した角川書店の攻撃部隊のような場所であった。

ところが当の主役の角川春樹社長が、追い出される形となった。麻薬で逮捕され、角川書店は弟が引き継ぐ事になったのである。その角川新社長のもと、東映や東宝と並ぶ老舗の映画会社「大映」を買い取って、「角川大映」とし、現在は角川映画となっている。

一方の角川春樹は、刑期を務め出所後、角川春樹事務所を、角川書店とは無関係の、書籍および映画製作部門として、一攫千金を狙う独立系の会社に変貌させて、機を狙っていた。

もはや別働隊ではなく、別の会社である。

そして再び東映と組んで大ヒットを飛ばしたのだ。

東映といえば、「仮面ライダー」シリーズがあり、そしてまた「秘密戦隊ゴレンジャー」シリーズがある。どうして二つも巨大なシリーズを持っているのか。

これもまた「ねじれ現象」が元である。

「仮面ライダー」シリーズは、東映製作であるけれども、本来の東京(大泉)撮影所や京都(太秦)撮影所では撮影が許されなかった。「格下」の作品として蔑まれて始まったからだ。生田スタジオという「仮面ライダー」だけのために作られた場所で、撮影所で威張っている連中に追いつけ追い越せと始まった。制作も東京ではなく、大阪の毎日放送だった。この毎日放送は、今でこそTBS(東京放送)の系列だが、当時(放送開始七一年)は、NET(現テレビ朝日)の系列であった。逆に大阪の朝日放送が、TBSの系列として放送を流していた。これもまた、放送業界の腸捻転と呼ばれていた。 

このねじれ現象の解消が七五年になされ、NETは、看板番組である「仮面ライダー」をTBSに持っていかれる形となった。そこで、NETは、東映と組んで、「仮面ライダー」に負けないシリーズを作るという意気込みで始まったのが「秘密戦隊ゴレンジャー」であった。 

のちに「スーパー戦隊」シリーズと命名されるが、その前段階となる第1作「秘密戦隊ゴレンジャー」は、仮面ライダーと同じ石ノ森章太郎の原作であり、仮面ライダーⅤ3の宮内洋がアオレンジャーとして登場し、次の「ジャッカー電撃隊」にもレギュラーとして現れた。この後、シリーズは石ノ森の原作からは外れた。

「仮面ライダー」「同V3」「同X」「同アマゾン」「同ストロンガー」「同スカイライダー」「同ZX」「同スーパー1」「同ブラック」「同ブラックRX」「同クウガ」「同アギト」「同龍騎」「同555」「同ブレイド」(この作品からフジテレビ)「同響鬼」「同カブト」と、アニキ格の仮面ライダーが現在も続く中、一方の「ゴレンジャー」シリーズもいまだ続いている。 

「秘密戦隊ゴレンジャー」「ジャッカー電撃隊」「バトルフィーバーJ」「電子戦隊デンジマン」「太陽戦隊サンバルカン」「大戦隊ゴーグルファイブ」「科学戦隊ダイナマン」「超電子バイオマン」「電撃戦隊チェンジマン」「超新星フラッシュマン」「光戦隊マスクマン」「超獣戦隊ライブマン」「高速戦隊ターボレンジャー」「戦隊ファイブマン」「地球鳥人戦隊ジェットマン」「恐竜戦隊ジュウレンジャー」「五星戦隊ダイレンジャー」「忍者戦隊カクレンジャー」「超力戦隊オーレンジャー」「激走戦隊カーレンジャー」「電磁戦隊メガレンジャー」「星獣戦隊ギンガマン」「救急戦隊ゴーゴーファイブ」「未来戦隊タイムレンジャー」「百獣戦隊ガオレンジャー」「忍風戦隊ハリケンジャー」「爆竜戦隊アバレンジャー」「特捜戦隊デカレンジャー」「魔法戦隊マジレンジャー」「轟轟戦隊ボウケンジャー」。

いずれにしてもねじれが生んだ、二つの化け物番組シリーズである。 

また、長い与太話を書いてしまった。 

腸捻転のお話である。

女の野球を見ていくうえで、女相撲や、かつてあった女の競輪、そして女のプロレス史についても、調べていこうと思う。

そもそもが、女子プロレスは、進駐軍に向けての「ガーター・ショー」として始まったらしい。ゴムバンドの靴下留め(ガーター)を奪ったほうが「勝ち」というルールで、進駐軍の兵士の前で格闘をしていた。これを「プロレス」の1ジャンルとして認めるべきか。いや、認めるわけにはいかない、などとプロレス通の間では議論されているようだ。

始祖鳥が鳥の始祖ではなく、鳥類の一歩手前の爬虫類だとする意見もある。

しかし、どうにも「お座敷」的な、「芸者」的な、「ホステス」的な、男のための見世物の匂いがするのは、否定できない。

ストリップショーが、「クラシックバレエ」や、「日本舞踊」をも取り入れて、紛れもなくダンスである、と主張してみても、観客の圧倒的な割合がそういう目で見ていない以上、なかなかその主張が受け入れられにくいように、これは、やる側ではなく、見る側の問題が大きい。

プロレスもまた、「ミミ萩原」という明らかに華奢な体型の元アイドル歌手が、連敗しながら人気を獲得していった歴史など、「戦い」や「勝負」そのものよりも「美人女性の体」という見られ方を利用せずに来たわけではなかったはずだ。

実際、初期の女子プロ野球もまた、見映えのする「顔」で選手を選んでいたり、性的なアピールを内に抱えていたのではないか。これは全くの私の予想である。

元女子プロ野球選手の人に電話したら、その誇り高さに私は少々面食らった。
「女たちのプレーボール」という本をお読みになっていないのですか? と、鼻であしらわれた。

なかなか手に入らず、都内の図書館でも置いている所を発見できないでいる。
「あれを読めば全部分かりますよ」。
私の印象では、ノンプロ化してから入った選手のほうが、女子野球の普及に一生懸命であり、愛情深く執着も強い。一方プロの時代の選手のほうは、ノンプロ化によって、やめてしまうものも多く、「あれ(プロの時代)は一過性のもので、青春の1ページに過ぎない思い出でした」みたいな、きれいさっぱりと区切りをつけている人も多いという印象を、今まで聞いた話からはうかがえる。

恵まれていた環境の中に入っていったプロの時代に対して、廃部寸前の中で存続の危機を抱えながら、なお「やりたい」人間が集まって闘い続けたノンプロの時代。

当初の女子プロ野球というものは、男向けの見世物、接待込みの「お座敷」野球であり、器量の良さで集めていたりもした、という面が、あまり言いたくない事実として、やはりあるのではないか。
誇りを持っていると高圧的な態度になるのは、むしろ誇りが無いために、虎の威を狩るキツネにならざるを得ない事情があるからなのではないか。
だからこそ、女子野球への情熱は、ノンプロ化してから入団した人のそれに比べて、対して執着も愛情も感じられないのではないか。
これをあまり書くと、女子プロ時代の人は、語ってくれなくなる。

そりゃあそうだ。「後ろ暗いからこそ威張っている(ノンプロになってからの人たちとは、格が違うのよ)」みたいな書かれかたをするのであれば、取材など受けたくも無いであろうし。

元プロとノンプロ時代の人たちとのギャップ。

これが私が感じた第二のねじれ現象、すなわち腸捻転である。

ここの部分を、偏向することなく、どう見つめて、どう書けるか。 

どうして女子プロ野球が、明るく普及して、『プリティ・リーグ』のように誰でも知っている知識として親しまれている形跡が無いのか。

今のところの違和感なのである。

|

2006年5月 4日 (木)

女子野球④腸ねん転その1

腸捻転と書いて、「ちょうねんてん」と読む。

この状態になった事が無い人は、これを笑っていられるが、なりやすい人はなる。

かくいう私もなりやすい。

どうしてかといえば、胃を手術したからだ。癌で全部取っちゃった。

退院後、油物と便秘にだけは気を付けろ、と医師に言われた。

この医師は有能であった。

退院後に気を付ける事は数限りなくある。

医師が、色々と、こと細かく注意を促して言ったところで、結局は全部について気が回らなくなり、何も気を付けなくなる多くの患者を診てきたはずだ。

だから、その患者にとってせいぜい重要な二つくらいを言うのだ。

私の場合が、油ものを食べるのを控える事と、便秘にだけはならないようにする事だった。

実際、私が入院中にも、多くの胃を切除した患者が、病院に逆戻りしてきた。

「またかよ」

医師に怒られているものもいる。

「すんません。好きなものだから、どうしても食べちまって」

「何枚くったんだ」

「四枚です」

「ばか」

四枚といっても煎餅(せんべい)のことではない。蕎麦(そば)である。

イケないと言われている(そしていけないにもかかわらず大好きな)そばを、多分飲み込み方も気を付けることなく、一気に食べたのだ。

たいていは「腸の癒着」で運ばれてくる。それがひどい場合のは「腸捻転」なのである。

スパゲッティとか、ラーメンとか、麺類の場合が多い。

にもかかわらず、私の場合、術後すぐの時期は、豆腐でも、ほうれん草でもなった。

決して麺類に限った事ではないのだ。

ご用心。

まあ、いいや。そんな話をするために書いているのではない。

腸捻転とは、腸がねじれるわけで、油ものや細長いものが災いして、前後の通過をさえぎる行為なのである。

女子野球の取材を進めていく中で、まだ始まったばかりというのに、どうやら大きく立ちはだかる三つの腸捻転が浮かび上がってきたのだ。

一つ目は山本英一郎である。

何もあの英一郎氏がどうこうという話ではない。いや、もしかしたらそういう事になるのかもしれない。

山本英一郎といえば、私のような大の高校野球ファンにとっては、神様みたいな人だ。特に六〇年代生まれぐらいまでの世代(私は一九六二年生まれ)にとっては、池西増夫や鍛治舎巧らとともに、NHKでの解説をよく記憶している事であろう。大相撲で言うなら神風正一、緒方昇に匹敵する名解説者たちだった。そのなかでも、山本英一郎の語り口は、その深い愛情が染み渡る奥深い感銘を与えていた。

慶応大を卒業後、社会人野球の鐘淵紡績(のち鐘紡となり廃部。カネボウとなって有名だったバレーボール部も現在は廃部)でプレーし、その後アマチュアの審判員や解説者を経て、社会人野球協会(現日本野球連盟)へ加わり、野球をオリンピック競技として世界に普及すべきと主張し、ソウルオリンピック(一九八八)でついに正式競技として採用されるまでに至った。一九九七年に日本野球連盟の会長に就任(二〇〇五年退任)し、特別表彰として野球殿堂入りした。

まさに、ミスター・アマチュア野球であり、ノンプロ野球界の首領でもある。

だが、こと女子野球に関しては、それほどの実績があるわけではない。というよりも、手をつけてはこなかった。

特に、サッカーなどと比べて、世界的には著しくマイナーなスポーツである野球を普及させようと傾けたそのエネルギーは、どうにも男の野球であり、「女の野球」は、さらにさらに、置いてけぼりを食っていくイメージがあった。

女子野球が、団体として大きくなるには、そして普及浸透させるには、たとえばこの山本英一郎抜きには、なかなか難しかった。このビッグネームのほかにスポンサー、連盟という名前の力。そういった後押しはしかし、どうにも「男社会」独特のやり方のようにも見える。しかし一方、女子野球というものが、よくあるウーマンリブ運動のような「草の根」的な、独立プロ映画、左翼運動といった「べき」「ならねばならぬ」というものでもない。

男子と同じように大会が存在しなければならない、とか、世界と手を組んで「男に見られる存在」としてではない自立的な組織であるべき、というものでも決してないのである。

ただただ、女だって野球がやりたい、というだけの話であった。

ソフトボールというものがある。私も小学校まではやった。

だけど、野球というものを覚えてしまうと、ソフトボールはいかにも物足りない。

投手の球は速くはなるが、その他のスピードがいかんせん、見応えが無い。点数も入らないし、結局は、男にとっては、(野球の)ルールを覚えるための通過点の様な存在でしかない。

これに反論があるなら、では逆にたずねるが、なぜ男のプロソフトボールが出来ていないのか。或いは発展して、草ソフトボールでもなんでも、全国の商店街なり、銀行、NTTなどに発生しないのか。

やりたくないからではないのか。

そういう存在に女を押し込めようとしてもダメである。それはそれ。野球は野球である。

今、女の甲子園(全国女子硬式野球大会)は、市島(京都府)で毎年春(センバツ)と夏に開催されている。また関東ではリーグ戦が行なわれている。

もともと女子硬式チームの多く存在した関東では、福生(東京都)で行なわれていた当初から「女の甲子園」に参加していた埼玉栄、花咲徳栄、駒澤学園、蒲田女子などで、それぞれ何チームも組織され、1試合ずつの総当たり戦でリーグ戦が毎年行なわれているのだ。

だが、こうして大きくなる中で、スポンサーをいただき運営費を獲得していくには、また知名度を上げて各高校の校長の理解(そもそも女子野球部を認めてもらい部費を獲得しなければならない)を得ていくには、どうしても、たかだか一人の奇特な男の乏しい財力と、ともに併走する類稀な鉄の女の力では、どうにも発展していかなかった。

だからといって、アマチュア野球の首領の、下部組織としてただ加わってしまうのは、話が違う。そもそも女に門戸を広げていない考え(そのこと自体に自覚的ですらなかった)の組織に、今更加えてくださいなんて、死んでも言うものか。

いや、これは私の想像でしかないが、試合前の整列(両チームを対面させてプレーボール前の挨拶をさせる)をさせない。とか、武士道的、日本の古臭い軍隊的なものを嫌った男。

彼が、そういった「男」たちの下部組織として「わが」女子野球の世界を加えるはずも無かったはずだ。

そこでのスッタモンダが、しかし、女子硬式高校野球の展開を少々ひねってしまった。腸捻転させてしまった。

さわりだけしか書いてないが、以上が一つ目の腸捻転である。

これをどう書いていくか。

難問である。

しかもあと二つある腸ねん転。

昨日は、阪神のシーツの同点、いや動転ホームラン、あそこで、前日の鳥谷の同点タイムリー状態(つまりは、後はサヨナラを待つだけ。実際関本が打ち込んだ)になっていたのに、その後は(妻の驚天動地の振る舞いで)サウナに追いやられて、そこでやっていたのは、山本キッドの秒殺だった。なんだよ。戻ってきたら負けているじゃないの。

やってらんね。

|

2006年5月 3日 (水)

女子野球③女たちの甲子園

春のセンバツと夏の全国高校野球選手権大会。

いわゆる「甲子園」である。

阪神甲子園球場で行なわれるから、その名で呼ばれるものの、もともとは、甲子園で行なわれていたわけではない。

甲子園球場が出来たのは、一九二四(大正十三)年八月一日だ。春のセンバツの第1回が開催された年であり、もちろんその年のセンバツは、甲子園ではない。名古屋の八事運動場だ。夏の大会は第10回目を迎えていた。

「甲子園」という奇妙な名前の由来は、完成したこの年が、十干、十二支のそれぞれ最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」が六十年ぶりにぶつかった年で、縁起をかついで、この付近一帯を「甲子園」とし、この新たな野球場を「甲子園球場(当時は大運動場)」と名付けたのである。

1回大会(全国中等野球優勝大会)は、一九一五(大正四)年という第一次世界大戦のさなかで、球場は豊中球場であった(出場は10校)。のち、一九一七(大正六)年八月の第三回大会から全国中等学校野球大会は、阪神電鉄の持つ鳴尾のグラウンドで開催され、観客を収容しきれない状態となったために、大きな野球場を!ということで、甲子園球場建設と、あいなった。

「もうひとつの甲子園」といわれるのが、定時制高校による軟式の野球大会である。

神宮球場で行なわれる。

甲子園球場と近い明石公園球場では、夏の甲子園が終わってすぐに全国高等学校軟式野球選手権大会というものが行なわれるが、それとはちがう。

明石のそれは、「甲子園」と同じ高野連が仕切っている。したがって、年齢が「高校3年生」のそれを超えてしまうと出られない。

神宮のそれは、働く高校生皆が出ることが出来る真の定時制の大会だ。

昭和二十八年、高野連のほうの軟式大会で、群馬県優勝した藤岡高校は、年齢の壁でもって、関東大会には出場できなかった。準優勝の前橋商業が出場という憂き目を見た。この年の秋、群馬県内で定時制高校独自の大会を開き、その翌年の昭和29年に、高崎商業などの呼びかけで、群馬、栃木、新潟、東京、山梨の1都4県6校による第一回大会が、群馬県高崎城南球場で開かれた。

そして第四回から神宮球場となったのである。

神宮というと、プロ野球の東京ヤクルト・スワローズの本拠地であるとともに、大学野球のメッカとして知られる。東京六大学野球連盟を始めとして各連盟の選抜チームが、毎年覇権を争う大会があるからだ。この大会の高校の部が、やはり「明治神宮大会」として開催されている。今では、春のセンバツの出場目安として行なわれており、「神宮枠」なるものまで誕生した。第三の甲子園ともいわれ、全国から10校が選ばれて、七三年から開催されている。

駒大苫小牧高校は、夏の甲子園と、その後の国体と、そしてこの神宮大会を完全制覇して、史上初の同年三冠を果たした。

話が逸れたが、これを指すわけではない。

もうひとつの甲子園とは、あくまで軟式の甲子園であり、すなわち定時制の神宮大会のことである。

ほとんど観客を集める事が出来ないらしいが、手作りの味と、「野球がやりたい」という原初の叫びが、そこに見られるのだ、とは、実は、これから語る、「女たちの甲子園」に最も深く関わってきた高橋さんの言葉である。

ここが大切なのだ。

この女子野球の、しかもこちらは硬式の、「甲子園」は、まさに、「高野連」的な枠組みと、仕切りと、伝統と、そういったがんじがらめに対して、「女」の闘いとして、アンチを唱えてきた魂が、隠されているのだ。

ソフトボールでもなく、軟式でもなく、ただただ、男と同じ野球がやってみたい。

硬式のボールを握って野球がしたい。

全国高等学校女子硬式野球選手権大会。

今は、「センバツ」と本大会が、京都府丹波市島町で行なわれている。もともとは、東京都福生市であり、紆余曲折を経て、現在、市島に落ち着いている。

ここに尽力した類稀な男、2年前に亡くなった男、高橋さんと二人三脚というよりは、一人の男の執念が存在した。

高野連の様な、武士道くさい、教育くさい、軍隊くさい、封建くさい、オトコくさい、そういったものへのアンチを貫き、真に自由な大会を目指しての悪戦苦闘の歴史があった。

初めは、二校だった。

いや、第1回の命名すらなく、日中親善試合であった。

一時は、読売新聞が絡んで、決勝戦は東京ドームというところまで話が進んだ。それでも、この男は、頑として、何が気に入らなかったのか、白紙撤回した。

白紙撤回は、読売に限らない。朝日新聞、スポーツ用品のゼット、その他その他、何度も続いた。

その傍で翻弄されながら、高橋もまた、今なお生き抜いている。

今は、やっとここまでこぎつけたという笑顔が混じっている。

この長い長い、女の歴史について伝えたい。

|

2006年5月 2日 (火)

女子野球②

女だって野球がしたい。

これは何も不思議な事ではない。オリンピックだって、陸上競技、水泳、球技、なんでも女性の種目は、いまやほぼ全て、出揃っている。

男は野球、女はソフトボールなどと分けられる必要もない。

しかし、そもそもは、古代オリンピックの頃から、選手としての女性の参加には消極的であった。近代オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタンも、女性のオリンピック参加に反対していた。第1回アテネ大会(一八九六年)での女性種目はゼロである。
クーベルタンは、「女性の競技は興味もないし、美しくもない。大衆の面前で女性競技を見せることは、品位を下げるものである」といっている。むしろ女性は、「栄冠を与える側こそがふさわしい」と、役割まで指し示した頑固男爵であった。

しかしオリンピックは、第2回大会から女性種目が導入されていった。ゴルフ、テニス、アーチェリー、フィギュアスケート、水泳、ヨットなどなど。クーベルタンも、「個人スポーツや対人スポーツが女性向きだ」と参加を受け入れていったのだが、陸上競技に対しては、IOC会長在任中の最後まで反対した。
クーベルタン退任後の一九二八年、第9回アムステルダム大会で初めて女子の陸上は採用された。男子の22種目に対して僅か5種目ではあったが、画期的な1ページのはずだった。800メートルでは、人見絹枝が日本人女性初のメダルを手にした。ところが、この競走において、彼女も含めて出場選手が、ゴール直後に次々と失神してしまったのだ。

「だから言わないこっちゃない。女性の参加はダメなんだ」と、いかにも批判される事件だった。銀メダルを獲得した人見は翌年に24歳で亡くなった。結局、次のロサンゼルス大会から800メートル競技での女子は外され、一九六〇年のローマ大会まで消えた。

しかし、実際は、オリンピック参加以前の一九二一年に、フランスのミリュア夫人が中心となって、国際女子スポーツ連盟が設立され、その翌年、国際女子陸上競技大会(女子オリンピック)が開催されていた。女子の陸上競技はその時から既にスタートしていた。この大会は四年ごとに開催され、一九三四年まで続けられ、人見絹枝は、この大会で既に活躍していた。走幅跳で金メダルを獲得している。
現在では、この人見絹枝の魂を受け継ぐべく、「中・長距離走は女性には無理」というレッテルを引っぺがして、更に過酷なマラソンでの大活躍が、日本女性によってなされている。

そのヤマトなでしこ七変化、やはり、野球がやりたいという女性は、何もオリンピックに出るレベルでなくともいるのである。

「おかあさん、凄い電話がかかってきたよ。年齢が幾つだと思う?」

「さあ、50歳ぐらいかい?」

「いや、もっと上。お母さんよりももっとずっと上だよ」

「あ、そう」

別に驚く事も無かった。あたしだって、この年(このとき55歳)まで、監督兼選手で続けているんだし、審判もやっている。

それに、このチーム(東京都北区の女性だけの野球チーム「ノーザンライツ」)は、年齢制限が無い。55歳までNTTのソフトボール部で活躍していた70歳という年齢の人も現にいる。少々の事では驚かない。

「で、いくつなの」

「68歳だって」

「へえ、そうなの」

この娘も母が監督する同じチームで、親子選手として活躍している。70歳のチームメートについては知っている。ならば、驚く事も無いではないか。

ちがうのである。

「お母さん、違うんだよ。その人、生まれてから一回も野球をやった事が無いんだよ。ルールも知らない。ずっと結婚もせずに独身で生きてきて、両親を看取って、ひとりになって、さあ、何かしようっていうんで野球がしたい!って言うんだ」

「また、どうしていきなり?」

「死んだお父さんが、毎日毎日、テレビのナイター(多分、東京だから読売ジャイアンツの試合)を見ていたのを、何となく横目で見ていて、いいなあと思っていたそうよ」

「へえ」

さあ登場。68歳。案の定、全くもって大変だ。

一から手ほどきしなければならない。

家の仏壇の引き出しには、野球ノートが入っている。

ダブルプレーは、ええと、ええと、二つアウト。

弾丸ライナー。ええと、ええと。弾丸の様な打球。

一つ一つ、メモして勉強しているおばあさん。

インフィールドフライ。ええと、ええと、無死または1死で、1・2塁以上に走者が詰まっているときのフライ。

いや、三年間でそこまで達していたのかは分からない。とにかく68歳から71歳までの遅れてきた青春を60歳代後半から70歳代に向かって三年間満喫した。

と書くと美しいけど、そんな簡単なものではない。

投げられない、構えられない。走れない。

監督が地面に座り、下からトスして球を打ちやすいように放り投げる。

それをバットで振って打つ練習なわけだけれど、全然当たらない。

いや、当たるといえば、鎖骨のところに全部空振りして、必ずポコッと当たる。

同じ場所だ。鎖骨が折れるのではないかと心配した。パットを入れた。

そんな練習だった。

だけど、野球がやりたい。そう思った。

野球がやりたい。お父さんの毎日観ていた、あのオモシロそうな野球がやってみたかった。

お父さんは大工で、だけど見るだけで、実際に自分が野球をやっているふうではなかった。

でも、あたしはやってみたい。やってみたかった。

「北区ニュース」という小さな地元の広報。

<女性軟式野球チーム「ノーザンライツ」野球の好きな女性の方、年齢は問いません。関東女子野球大会に参加しています。毎週日曜、主に中央公園、及び荒川グラウンド。会費月1000円。連絡先・高橋>

この、僅か数行の、小さな記事を、68歳の彼女は、希望の光として、みなぎる余生の根拠として、ピンと来た。

ただそれだけだった。

たかだか野球をやりたいと思っても、女性の場合は、それほどに機会も、記事すらも無いのだ。

3年後、「ありがとうございました」といって、Aさんはチームを去っていった。

あれから、もう10年以上が経っている。

野球。野球が好きだった。

監督のその高橋という女性は今でも野球をやっている。

審判も続けている。

彼女は一体、何者なのか。

いよいよ、女たちのプレーボールの物語をたずねる旅が、今始まる。

|

2006年5月 1日 (月)

女子野球①或いは二岡智宏

女子野球というと、何を思い浮かべるか。

シドニーオリンピックで銀メダルを取った、例のあのドラマであろうか。

宇津木妙子監督に、強打の宇津木麗華と、そしてアメリカの連勝記録を112で止めた「ミラクル石川」ことエースの石川多映子。

最後の落球サヨナラ負けまで、感動させてくれた。

だけど、違う。あれはソフトボールであり、野球ではない。

では、ふたたび。

女子野球と言えば何を思い浮かべましょうか。

欽ちゃん球団の茨城ゴールデンゴールズ・片岡安祐美、あるいは神村学園から明大入りして東京六大学で投げた小林千紘。

そうでしょう。試合やプレーは見た事は無いけれど、個人名で、或いは、男の中に混じっての一人の選手という事でなら、何となく浮かぶ人もいるでしょう。

『プリティ・リーグ』というハリウッド映画がありました。

アカデミー賞俳優のトム・ハンクスが主演で、彼は女性ばかりのチームの監督を演じている。これは実在したアメリカのプロ野球チームを描いた話だ。選手の役として出ている俳優は、ジーナ・デイビスやマドンナだ。プロ野球のリーグが発足したのだ。

ここでビックリする人がいるかもしれない。

えっ!?

アメリカには女のプロがあったのか?

あった。1943年に出来た。といえばお分かりの通り、日本との戦争中であり、選手たちまでが兵士として戦争に駆り出されて、メジャーリーグに代わって、野球ファンの心を癒そうという試みとして始まり、大変な人気となったわけだ。戦後、メジャーリーグの選手たちは帰還し、女子プロは人気を失っていく。1954年にリーグ終了。

すごいなあ。

日本じゃ考えられない事だ。

とお思いになりますね。普通なら。

ところがどっこい、ギッチョンチョン。

日本にも女子プロ野球があったのだ。

女子プロレスに詳しい友人に聞いたら、プロレスは男子より前(という事はもちろん力道山よりも前という事になるが)、女子のほうが先にプロレスが存在していた・・・といっていた。

「また、いったいどうしてでなんですかねえ? 」

「見世物としての要素が強いじゃないですか」

「芸者まがいのお座敷プロレスみたいな? 」

「古くは、そういう成り立ちだったかもしれません」

なるほどねえ。ならば、日本の女子プロ野球もまた、アメリカ同様に、男の消えた戦時中に癒しの道具として始まったんだろうな。

ところが違うのである。

日本最初の女子プロ野球チーム「ロマンス・ブルーバード」は、戦後四年経ってからの495月(一説には6月)に結成され、そして。

男のプロ野球(とかくと何だか、任侠野球みたいだが)が始まったのは、戦前であるが、現在のセ・パ2リーグとなったのは1950年からで、その年に、女子プロ野球もブルーバード、レッドソックス、パールス、ホーマーの4球団からなる女子プロ野球連盟として発足したということなのだ。

そもそも、1917年(というと、大正6年)には、今治高等女学校が野球部を創設している。

随分と早いではないか。

いや、これは先入観なのかもしれない。

野球が、男のスポーツだ! という観念の根拠はいったいどこにあるのだ?

そうなのだ。どうやら、この刷り込みは、思い込ませてきた力は、男の策謀だったかもしれないではないか。

今治というと、もちろん愛媛県の学校であり、松山商、今治西、宇和島東、済美を要しての、この間(去年の夏)まで(47都道府県中)高校野球勝率全国一位の県である(今センバツの計算を今まだ、オレはしていないので、現在値は今から計算します)。

松山といえば、「野球(野ぼーる)」と命名した正岡子規(本名のぼる)の地でもある。

そして、今センバツに出場した今治北高校の前身こそが、その今治高等女学校なのである。

今日はちょっと、この辺で止めておこう。

読売の二岡は、七回裏の最終打席となるであろう打席で、江藤(広島)やレオン(大洋)と並ぶセ・リーグトップタイの10打点を記録していた。

15-2と圧倒的な差で勝っていたから、裏の攻撃である読売は、どう考えても9回裏は巡ってこない。という事は、この七回と八回の2イニングのみである。212塁でのこの二岡の打席は、よほどの事が無い限りは、最後の打点を稼ぐチャンスなのだ。しかもランナーがいるではないか。読売の記録はこれまで9の清原が最高で、それはもう既に超えている。第一打席が2ランで打点2。二打席目はセカンドフライ。第三・四打席と2打席続けての満塁本塁打は、プロ野球史上初めての出来事だそうだ。これで打点が10となってセ・リーグ記録に並び、更にプロ野球記録である11に並ぶ(つまりセ・リーグ新記録)か、もしくは、日本新記録の樹立を、という打席だった。

ベンチで、インタビューを受けているから、記録については耳に入っていた。

ボールカウントは三ボールとなり、あと一球がボールによっての四球では最もつまらない。

解説の江川卓も、多少浅いヒット(つまり本塁に帰ってきてアウトのタイミング)でも、三塁コーチャーは、2塁ランナー(の本塁突入、つまりは打点プラスのため)を回して欲しいですね。といっていた。

それほどに重要な場面であったのに、二岡は、次の球を見逃した。ストライクだった。多少低目ながらも真ん中の決して打てない球ではなかった。

1-3(アメリカ式なら3-1)となっての5級目。無常にも外角低目のクソボール。打点を狙う男なら、これを空振りするだろうに、既に四級目のストライクを見逃しているこの男は、余裕を持って見逃しての四球だった。

つまんねえ。

どうしても抜けない記録の1つとして、1試合で言えば、4本塁打、6得点、11打点というのがこれまであった。

本塁打の場合は、メジャーで1試合四打席連続ゲーリック、コラビト、マイク・シュミットに次いで、マイク・キャメロンが35年ぶりに並ぶわけだが、キャメロンの5打席目は、左翼ポール際に切れた大ファールがあった。明らかに狙っていたし、もしこれが入っていれば、この選手は化けたのではなかったか。もったいなかった。決して悪い選手ではないが、ブレイクする大チャンスだった。結局は名を四人目として連ねるだけで、翌年またしてもデルガドが記録し、5人のホームラン打者の中にかろうじて入った荒っぽい打者としてしか残らないであろう。日本でもまた王貞治など、依然として4止まりだ。

6得点。これはWBCでイチローと日本の1番打者争いをした、現在スワローズで活躍中の青木が大学野球で記録している。プロ野球では、昭和23年に千葉茂、翌24年に塚本弘睦が記録して以後、並ぶものも現れない。千葉はご存知「猛牛」の異名をとり、近鉄パールズからバッファロー(のちバッファローズ)に名を変えさせる元となった男だ。千葉の場合は、青田と川上が控える巨人の1番打者であり、塚本は、次打者の3番を打つ青バットの大下が、7打席7安打という記録を残している。7打席7安打は、メジャーでも19世紀に一人、1975年にパイレーツのレニー・ステネットが二人目を記録しただけである。

そしてこの11得点は、大映の飯島滋弥が、やはり昭和26年という遥か昔に記録したのみであり、二岡は大チャンスだったのだ。もし一発狙ってスタンドインしていれば、13打点の世界記録だったわけだ。

大学野球では、内藤雅人(東洋)の12打点というのがあるそうだ。メジャーでも12打点。

甲子園では1試合の最多打点は七が最高だが、地方大会では、たとえば青森で、「東欧義塾」対「深浦」が「122対0」の7回コールドという試合があったりするから、もっと凄い記録はありそうだ。

二岡。欲が無いのか、手が出なかったのか。

ばかだね。

|

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »