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2006年3月30日 (木)

早実ー関西

今大会は、いつのまにか未知の攻撃力が試されているかのようなセーフティーリードの全くない異常で危険な大会となった。

気負いも衒いもなく、どんな点差でも、中軸打者を中心に思いのまま振りぬき、どんどんと早いカウントから細かい作戦もなく好球必打して畳み掛け、点をこれでもかと突き刺し込んでくる。

そもそも、最速150キロ投手と重量打線を率いての優勝候補の最筆頭であった駒大苫小牧の不祥事による出場辞退で、甲子園の地図は激変して始まった。

主役不在の大会といわれ、「打倒駒大苫小牧」の大目標が消えてしまい、かえって肩の力が抜け、それが途中からニューヒーローを名乗り出るかのようなものすごい展開となった。

今日も雨の中、四試合、全く目が放せないが、それにしても昨日の延長15回引き分けゲーム(早実-関西)だ。

まずは第1試合から波乱含みであった。強打の智弁学園(奈良県)が、逆に強打でひっくり返された。

第2試合こそがものすごかった。横浜(神奈川県)を相手に初出場の八重山商工(沖縄県)は先制され7-0となる。しかも守備の乱れも出て、そこに漬け込まれた一方的な試合展開だ。

ところが1点1点返すというよりは、これまた堂々と振りぬき、これでもかと一人一人まともに打ち返して、襲い掛かっていく。破壊力抜群の打線は7-6と一点差まで追い詰め、9階裏は2死2・3塁で鋭い打球がショートに飛ぶ。非常に堂にでもなるような微妙な当たりを、最後は横浜の攻守がしのいだ。

そして第3試合である。

早実(東京都)というチームは、ユニフォームも変わらず、昔の高校野球の目標(文武両道とか健全な精神とかいったもの)として掲げるイメージそのままの「よさ」が現れた選手たちを送り込んできたように見える。気持ちの強い投手を中心として、よく鍛えられた守りと、確実に点に結びつける攻撃力とで、よくまとまったチームだ。活にしても荒っぽくなく、負けるにしても最後まで期待させるまさに甲子園ならではの人気のチームだ。

そして関西(岡山県)は、駒大苫小牧に秋の神宮大会決勝で敗れた、ある意味では2次的に仮想優勝候補とも言える、実際に王者の風格の漂う怖いチームだ。

優勝を狙える両チームが、古きよき時代の名残ある名門と、新しい波の強豪との一騎打ちの試合とも言える。

そしてこれまた乱打戦となった。

関西の3・4番。左打者の上田、右打者の安井は、すザマじい打者だ。特に170センチと小柄ながら、長打力をいかにも秘めた構えの安井は、昔のパリーグの四番打者(半球の長池、近鉄の土井、投影の大杉といったそれぞれのわが道を行く打法)みたいな変則フォームで構える男だ。

9回裏に無死1・2塁となってこの3・4番を迎える。点差は3点。

打ち気満々の3番上田は、この日、七回に追撃の、そしてチームの目を覚ますにふさわしい2点本塁打を打っている。闘志むき出しの真っ黒い顔で、整然とした気持ちで抑えていく早実のエースさいとうに対して恐怖充分だ。

これに死球を与えた。さあ、無死満塁で四番安井だ。

怖い怖い。外角高めの甘い球を逃さず思い切り叩く。打球は右中間の一番深いところにぐんぐん伸びる。入った。そう思った。

逆転満塁(つり銭無し)サヨナラホームラン。いや、しかし、あと少し距離が足りず、走者一掃の同点3塁打にとどまった。

早実は満塁策をとる。動転の9回裏無死満塁絶体絶命。ところが後ろに抜けそうな投手ゴロを落ち着いて裁きゲッツーで次打者を三振、何とか踏ん張り切り抜けた。

駒大苫小牧の消えた激戦の甲子園は、戦国の様相を呈してきた。

大会のはじめは投手戦で始まった。愛知形成が逆転サヨナラ勝ちした9回表のセカンドのトンネルから、にわかに打棒が騒がしくなった。あのトンネルが火をつけた攻撃力全盛の大会は、大阪湾を炎上させて、とてつもないことになって来ている。

ノーガードの打ち合いを、選手個人の力をイ遺憾なく発揮して伸び伸びとやっている。

それがただの乱打戦とならずに、見応えを持ちこたえさせてくれているのは、守備力もまた徹底してきっちりしているからだ。エラーが殆どない。

特に、高校野球特有の、いかにも緊張でエラーしてしまい、その後の悲しいゲーム展開というのが、まだない。エラーで自滅していくチーム。均衡が破れると途端に一転して惨めな一方的展開となる。それがない。

中軸打者を中心とした強打の打線の振りぬいた打球がとにかくいい大会だ。

友情とはなんだろうか。『ゴッドファーザー』という映画で、マフィアのボスであるドン・コルレオーネが、私が君に何をして、君が何をしてくれるかだ。という意味の言葉を吐くが、これをただギブ・アンド・テイクと誤解して、持ちつ持たれつの癒着と解釈する人がいるが、それは良くわかっていない。

友人とは「親しい他人」のことではなく、むしろ「親しくない自分」だとは、哲学者たちの語ってきた一つの説だ。

自分(或いはもうひとりの自分とも言うべき大切な存在)に対してならば、その相手に対して道具として扱うような、家畜としてみなすような、“利用”のしかたはしない。

付き合うこと、そのこと自体が目的化する。

しかし、「あなたのためなら一生を捧げます」とかなんとか言ってみても、ぺこぺことしている割には、心中では「道具として利用いてやれ」といったもので、家畜とみなしているようなもので、それはお互い様で、そんな縛りの元、壮烈な打撃戦が展開できるか、どうか。

あなたより何より、ただの「自分」が見え隠れする。

人間は自由に友情をはぐまなければならない。

いい試合だったと、相手と抱き合うのは、「勝つ」という目的の上では敵でありながら、その敵対関係が終わって、一緒によくやったと言い合う仲間のことではない。

確実に敵のまま、たたえあって、抱き合うのである。

悔しさのまま抱き合うのである。

日本がキューバを下したWBCの決勝戦。その後のイチローの態度。

そして高校野球。

少しは頭を働かせて、試合を見る。

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2006年3月28日 (火)

延岡学園ー今治北

野球は筋書きのないドラマだ。

使い古された言葉だけれども、それを本当にかみ締めている人はどれだけいることか。

野球は面白いとか何とかいったって、じゃあ、いま行なわれている、春の選抜高校野球を、どれだけの人が見ているか。

50%を超える視聴率であれほどに目を引きつけたWBCの後、野球は面白いとか何とかいって、何%の人が何を見ることになったのか。大して野球が好きなわけでもないだろう。

それに、ボルテージが高いようにも見えたが、準決勝、決勝とWBCは本当に面白い試合だったのか。おれはそうも思わない。

面白い試合は、どこかにいきなり現れる。何もそれはベスト8や準決勝、決勝というわけではない。1回戦に突然現れたりする。予測が付かないから面白い。

センバツは、第5日にして、とんでもない試合が現れた。めちゃくちゃに面白い。

それは第3試合だった。延岡学園(宮崎県)は、九州では清峰(長崎県)と並び、全国でもAランクの強豪だ。一方の今治北は、ワンランク落ちるも、なかなかにいいチームで、特に長打力を秘めた3・4番が切れ目のない打線を引っ張っていくと、面白い存在になる。

そして両チームとも守備が抜群で、その土台の上にかさにかかった攻撃力を持っているから、この戦いはレベルの高い試合が見られる。そういう期待があった。そして案の定、その通りになった。

延岡学園

今治北

×

12

その前の第2試合は、9回まで投手戦となっていた。9回表2死ランナーなし。金沢桜丘(石川県)の三人目の打者も平凡なセカンドゴロ。あっ。トンネルだ。

ここから流れはあっという間に金沢に傾き、2点を取って3対1となる。しかし、オレは、このもう1点が余計な気がした。2対1ならば何とかしのいだろうけれど、さらにプラス1点で3対1になったことが、何かゲームを動かしてしまって、落ち着かない雰囲気を与えたような気がしたのだ。

二日前に早実(東京都)に負けた北海道栄(北海道)にも、七対0と大差の試合ながら、実は少し期待していた。というのも、初回にいきなり四点を取られるも、その裏1死満塁となって、小細工なくまともに攻めて、0点だったからだ。もちろん1点をまず取りに行かねばならぬのだが、それよりも大きく揺さぶって、でかい流れを掴もうとする野球なのだろうという大型チームの匂いがしたのだ。結局はよく大型チームが負けるパターンで大差で押し切られたが、ゲームを揺さぶる匂いだけは終盤まで残っていた。

さて、この日の第2試合は、2点という9回までにはない大きな得点こそが、どうにも怪しい匂いを発していた。9階裏には、ざわついた雰囲気のまま、変な打球が飛び、何となく効率よく3点を取ってサヨナラ勝ちとなった。

その後の試合だけに、これはきびきびした両チームでエラーがなくとも、何か大きく動くような気がしていた。

まずは四点を今治北(愛媛県)が取るが、この取り方がすさまじかった。3番四番の打棒を見せ付けるに充分なもので、ちょっと実力不足のチームなら、これだけで押し切られていただろう。ところが、延岡も負けていない。しぶとさと集中力があって、9点を取る。この時フラフラッと上がったおかしなテキサスヒット(野手のいないところに落ちるヒット)が3本続く運もあって、魔の5回という結果に完全になってしまった。それでもこの試合はどうもまだ決着が付いていない匂いがプンプンしている。

そもそも初回から、エラーはないが、どんどんと勢いよく攻める両チームの打球は速いし、何より仕掛けときびきびした積極さが、明らかに点数をどうにでも牛耳るという力を感じさせていた。マリナーズが強かった3年前ごろに突然と襲い掛かるインデイアンズとか、もう手が付けられなくなる爆発力を秘めているのだ。

9点を取られた裏に、また快音を響かせてチャンスを作る。セカンド塁上の走者は、次の打者の完全にセンター頭上を抜けるかのようなライナーに反応するも、じっと止まってみていた。ファインプレーでキャッチされ、慌てて戻る。結局この走者がホームに帰ってくることはなかったけれども、ここでゲッツーにならずに、しぶとく形勢を保っていた以上、火種は燻り続けていた。

6回にはまたまたチャンスを作られ、今治北のエース西原は、なんでもない投手ゴロを、裁くことが出来ず、呆然とどこにも投げられなくなる失態を演じる。

もうだめだ、ってな感じなのだが、見ているこちらとしては、決してそんな事はなく、この試合は必ず動くから、踏ん張れ、そう思って見ていた。

2塁の塁審が駆け寄って、「どうしたんだ。気力がなえたのか」みたいな声を掛けて、ようやく再開されたが、ボロボロであったことは確かで、次の打者も当然そのへろへろの投手を狙って、バントを転がす。しかし真正面で何とか抑える。

さあ、6回裏がやってくる。伸び伸びと打ちまくる今治北。

破壊力満点の打線。コンパクトにスイングするも振り抜くから大きく飛ぶ。

今度は相手の投手がヘロヘロだ。気力がなえて、ストライクを取ることも出来なくなる。逆転され、ボークでさらに1点追加された後の2死2・3塁。次の打者にボールスリーとなって、そのあとの2球は、完全に外角にはずれていたが、大サービスの教育的ストライクで、ビックリした。だけどここでも勝負あったわけじゃない。同じように試合は動いてくるのだから、ここを踏ん張れ。そう思った。しかしもうこの投手の飲まれ方は尋常ではなかった。トロンとなってしまった目が最後まで現を抜かしたまま終わっていった。

死闘だった。

これだから高校野球はやめられない。メジャーであろうと、プロ野球であろうと、これほどに面白い試合は、せいぜいが年に数回しかない。しかもなかなかに見ることが出来ない。

高校野球はその宝庫であり、これを見ないとは、もったいない。もったいない。

見終わってから試合内容を聞かされても、残念な気持ちにしかならないだろう。

ああ。おもしろかった。

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2006年3月25日 (土)

高岡商ー八重山商工

芸術選奨の贈呈式(もちろんオレは受賞者ではない。ただの推薦委員。串田和美、爆笑問題、中島みゆきなど受賞)や、雑誌のインタビュー(もちろんオレは受ける方ではない。インタビューする方)で、身体が疲れていて、どうにも「戦闘体制」にはいる前に、高校野球が始まってしまった。

開幕試合から全部見ているが、打線が低調だ。横浜対履正社も投手力が勝ったというよりも、打線が湿っている。

そのなかで、前評判はまあまあの高岡商業が、もし勝っていれば面白いチームだった。

何でこんなことが起きたのか、呆然としてしまう。

3-0とリードされて、1点ずつ追い上げ、2-3と一点差に迫った5回表の2死満塁。5番北田。2ストライク2ボール。打ったア。

ショートの右を抜けるセンター前ヒット。

2塁ランナーもタイミングはアウトも捕手のタッチをかいくぐってセーフ。逆転だ。打った北田も3塁塁上の走者もガッツポーズを上げる。

ところが八重山商の3塁、羽地選手から、2塁ランナーが3塁ベースを踏み忘れたと抗議があり、アウト。

結局フォース・アウト・プレーという事で、2死だったため3塁走者の1点もフイになり、2-3のままチェンジ。北田のヒットも取り消された。

相手投手は息を吹き返し、バンバンと外殻に決め球を持ってきて、三振を積み上げる。

こういう展開となると、どちらのチームが次の一点を取るかが勝負の分かれ目となるのだが、高岡は流れを戻すことが出来なかった。

八重山の生き返った投球とは一転、好投手の堀岡は、四球と、当たりそこねの内野安打の後、盗塁され、ど真ん中に打ってくださいというボールで、決定的な2点を与え降板。

次に出てきた細川も力のある投手だっただけに、このチームは惜しかった。

しかしそれにしても。ベース踏み忘れは恐ろしい。

もし、9回裏2点差を追いかける2死満塁で走者一掃の3塁打を放って逆転サヨナラという場面。2塁走者が同じようにベース踏み忘れでアウトとなった場合、どうなのか。

もちろんルール上、2点差のまま試合終了で負けである。

前日の一関のサヨナラ負けの場合は、仕方が無いように見えた。

いかに好投手とはいえ、味方が1安打で、もう限界が来ているような投球だった。

1-0とリードした終盤八回。岐阜城北に1点を追いかけられる中、先頭2塁打の走者を、バント失敗で飛び出したところをタッチアウトにした。

これで流れは普通は、一関に行くものだが、どうもそうは見えなかった。

9回もまた先頭打者に2塁打を打たれるが、その直後の四球が決定的だった。

この一関とは違って、高岡の場合は、かなりの実力校であった。お隣の県の石川勢は、ここのところ星陵に代わって金沢高や遊学館が溌剌とした中身の濃いチームで甲子園の活躍をさらっていたが、今回のこの高岡商はかなり楽しみなチームだっただけに、泣いても泣ききれない。それにしても踏み忘れた本人も不思議であろう。

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2006年3月22日 (水)

イチロー3

スポーツに詳しい友人からメールが来て、

準優勝くらいが日本のためによかったのでは、詳しくは話せないが、少なくとも今回のWBCは応援する気になれなかった。よい印象ではないということを察してくれ。

とあった。

何かを知ると、それまで見えていたイメージが180度変わることも多いし、その後またそれがひっくり返ることもあるが、自分の基準がぶれるか、もしくは固まるか、見直すか。立て直すか。

キューバ戦後のイチローのはしゃぎぶりを見てしまうと、超才と書いたものの、日本のプロ野球のサイズが、イチローサイズ(ある面は自由に、ある面はお行儀良くてつまらない)になったみたいで、それがここに来て、王さんと結びついたのか、とも思った。

王と長嶋、静と動のように伝えられてきたけれども、もっと前から、六大学のヒーローだった長嶋と、早実で甲子園優勝投手となるも、国体の出場資格で国籍問題により駄目だしされた王がいて、その線上での現役時代を見ていたおれは、子供心に、その風当たりには「変」な空気を感じていた。

王貞治の現役時代(おれは小学生)に、「王三振だ」が「王さん、死んだ」に聞こえるという都市伝説が、新聞に載っていたのを見て、当時から読売ファンではなかったから王でも長嶋でもどちらでも良かったのだけれど、それでも、何か悪意の様なものが社会に立ち込めているのを感じてはいた。「長嶋三振だ」でも同じではないか。

甲子園球場では(確か)下駄で殴られ、ダイエー時代は卵をぶつけられ、なお「世界の王」と祭り上げられる割りには、長嶋とは許される度合いが全然違う。

それが「溜まっていかない」わけが無い。

また、昨日の「イチロー2」にコメントいただき、その返信もかねて以下、書きます。

亀田の話は、日韓戦の引き合いとして適当ではなかったようで、(今の自分はボクシングの状況もあまり知らず)他の例を考えたほうが良かったみたいです。ちょっと話題となっている題材があると、つい見てしまうし、また引きずられるもので。

本筋はイチローについてであり、何か適当な例があったら、亀田の話と差し替えます。

亀田についても、今ここでは書きにくいけれど、複雑な感情を持っていること、(友人のメール同様)お察しくださいませ。

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2006年3月21日 (火)

イチロー2

ところで、昨日の試合をいい試合と見るか。

韓国戦の2回目で連敗したときに、イチローはコメントで「癪に障る」といっていた。

何をいっているのか。がっぷりと四つに組んだいい試合だったではないか。

アメリカ戦みたいな誤審があったわけではなく、不当行為が選手によって行なわれたわけでもない。ファールフライを捕るときに観客に邪魔されたというのなら、それはそれで問題とすればよいわけで、試合後に、いい試合だったという余韻をなぜか残せていない両チームは、そして特にイチローの指揮の盛り上げ方は感心しない。

亀田興毅の世界前哨戦がつい先日あった。亀田のパンチは、ロー・ブロー(反則の一つ)が多いようにも見えたし、お互い父親がセコンドについているとあっては、遺恨になりかねない材料は揃っていたが、それでもノックアウトされた相手は、試合後に、亀田に向かって歩いてきて、リング上で握手を交わした。

昨日の日韓戦はどうか。

好試合であることは確かだが、試合が終わって、両チームの選手が抱き合うというようなそういういい試合ではなかった。

イチローが、すでに大会前からの発言で、韓国側に火を炊きつけたという事情もある。

イチローと同じ国のオレから見ても、「ジャパン」の帽子を被って燃えないわけがない、とか、どうにも国粋主義的な人が喜びそうな匂いの強く感じられた発言が、なぜか多かった。

そして、そのイチローは、勝つことだけに固執していて、勝ってから握手を求めにいくくらいのゲームそのものを讃える気持ちがの膨らみはなかったように見えた。

どうもそういう男ではない。「日本」プロ野球限定の(しかもメジャーリーグ所属といういびつな関係での)超才。

一応付け加えておく。

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2006年3月20日 (月)

イチロー

あまりイチローをほめたことは無いが、ここでは最初で最後、そう見える文章になるだろう。

1、「天才」とは天賦の才能と運に恵まれたもので、成績を残す。

2、「秀才」(達人)は、努力して結果を出し、そのジャンルが他とどう関わっているかの物の道理も分かっているものの事である。

3、さらに遺伝子の成せる業か「伝才」とでも呼びたい人がいる。「鬼才」とか「奇才」とも呼ばれる、いわゆるオーラのある人である。

これら1~3を併せ持った人は、そのジャンルの「超才」とここでは呼ぶことにする。

イチローも超才のひとりに、このWBCを通して「成った」といえる。

それでもって、超才に当たる人とは、どういうものか。

超才というものは、そのジャンル(例えば映画)と個人が同一になってしまった者のことである。その時、その個人がどこに行くかがそのジャンルの先を決めるのだ。

一方、そのジャンルの歴史に掴まって、ぶら下がって、飯を食い、そのジャンルを支え、発展させているかのような気持ちになっている愚か者が、その個人(つまり超才)の手足を縛るのである。

つまりジャンルVSその個人

「俺を採るか、この世界が存続するのをとるか」で、俺を取るものの事である。

キング・カズこと三浦和良は、紛れもなく超才である。にも関わらず岡田という人は、ワールカップメンバーから外した事件があった。馬鹿馬鹿しくて思い出したくも無いが、1も2も3も無い男に何を説教しても無駄であろう。ナカタには3が薄いが、それでも1や2だけの才能で嫌う人もいて、なかなかギクシャクしていた、その後の日本サッカー。

プロ野球での超才には、一瞬だけの江川卓、清原和博という存在がいる。

たとえば古田敦也はどうか。1は満たす。2については、これまでのプロ野球史上、誰よりも輝いた世界観を獲得している男だ。では3は。

これが無い。MVPを獲得して花束を振りかざしたところで、そのことで獲得できるものではない。したがって×。野村克也も全く同じく3で×。

では長嶋茂雄はどうか。これは1と3が○。しかし2が×。野球がどれほどに他ジャンルと関わり意味を持ち、相互交通試合、自分がどういう立場なのか、結局分からずに、その他のスポーツで的外れなコメントを残してニコニコしているだけの人だった。政治に巻き込まれても、その立ち位置に無頓着であった。

2の秀才。これは広岡達朗であり、長嶋と広岡を足せば超才になるというわけダ。

阪神というレベルだけで言えば、歴代ミスター・タイガースのうち藤村富美男、村山実、田淵幸一(江夏豊と込みだろうけれど)とみな1と3があったけれども、2が無い。かろうじて掛布雅之がそれを意識するプレーをしたから、唯一の超才といえる。しかし範囲の枠が「阪神」というチームだけのそれでは、やはりそう呼んではいけない。ジャンルで無ければならない。

では王監督はどうか。やはり3が不足していた。

映画ではどうか。深作欣二監督は。満たしているのは1だけでしょう。したがってただの天才。

大島渚。これは2と3だけでしょう。1が無い。山田洋次。これは1と2だけ。3が無い。

で黒澤明だけが、1~3の全部を満たしている。スピルバーグにも3が無い。

一九五一年に始まった「NHK紅白歌合戦」(テレビ放送および大晦日開催は五三年の第四回からであり、第三回までの会場は劇場ではなくNHK第一スタジオ)に対抗して民放が、飛躍の年の一九五五年「十大歌手による民放祭」をやろうとしたとき、それが芸能界全体を掌握したイベントになっていないという反発と不満を一手に引き受けたのが、のち山口組三代目組長となる田岡一雄で、同日に美空ひばりをはじめとする「十大歌手競演歌謡ショー」をぶつけ、結局は民放連が折れて、「二十大歌手による民放祭」を開くことになる。もちろんその目玉は美空ひばりであり、「紅白」および「民放」ごときに左右される存在ではなく五五、五六年と「紅白」には出ていない「女王」である。日本レコード大賞も五九年から始まっているが、火がつくのは初めて大晦日にテレビ放送された六九年からで、美空は「いまさら」という六五年に「柔」で一度大賞を取ったきりである。美空が日本の歌謡曲というジャンルと拮抗した大きさをもっていたのである。

美空ひばりVS日本の歌謡界。

この二つが、行く先を巡って争ったのだ。

これ以後もある時期までずっと「歌謡界」を背負い続けていたゆえ、他ジャンルへの挑戦またはクロスオーバーについては、本人の進取の気性とは裏腹に、自由にはならなかった。「プロ野球」そのものと対峙することのなかった長嶋茂雄を超才と言い表す事はできないが、美空ひばりは超才である。

黒澤明は、「紅白」の方が美空を意識し、大きく成長していったように、「日本アカデミー賞」の創設に必要とされ、七八年の第一回(作品賞は『幸福の黄色いハンカチ』)に招待されるも、しかしこれを拒否する。テレビの演出はもちろん、ドキュメンタリーの取材も拒否し続けてきた。

超才というものは、そのジャンルを、次の次元に転換していこうとするとき、壊す可能性も当然の如く持っているから、既存で満足、現状で結構と思っている人たち(現存ジャンルの住人)は、その超才をとにかくなだめ、手足を縛り、時間を稼ぐ。疎ましくも感じる。要するにスポーツ選手ならば、彼らにとっての最も貴重な「時間」を無駄使いさせられ、「人並み」にされていくのである。

超才は惜しみなく奪われていく。

黒澤明は、野球を見るのは余り好きではないと語っている。中心打者の場面なら見ごたえがあるが、下位打線になると退屈だ。そして投手も豪腕なら見ごたえがあるが、二線級になると退屈だ。つまり、より超才の可能性を見せてくれるものに興味があるのだ。江川で言えば七四年のシーズンからの対決を観たい、ただそれだけである。大学の四年間も浪人の一年間も謹慎の二ヵ月間も不要なのだ。こういう意見に対して「お前はプロ野球だけでのことしか考えてはいないのか」と問う人もいるだろうが、それは黒澤明に対して、「映画だけのことしか考えていないのか」と問うようなものである。「私は映画である」という存在の人間に向かってそんな問いは無意味である。

ジャンルとその個人が1対1で、拮抗する。

ドーム球場の高さというものは、大体この高さであれば、いくら凄い打者でも天井には届かないだろうということで作られる。ところが実際には、結構当たってしまう。もちろんそれは強打者である。これが、ある一人の天才だけが頻繁に当たるとすると、どうするか。その天才のためだけに何億円もかけて、さらに高い天井のドーム球場に作り変えることはしないはずだ。現在のプロ野球にしたって、西武のカブレラと何人かを間引きすれば、もっと低い球場で済むはずだ。しかし、いくら情けない現状の野球ファンであっても、そこまで馬鹿にされた世界を支持はしない。それはなぜか。

たった一人だけ、その基準に合わないやつが出てきてもいいのである。そいつのために天井を高くして、それを見に行くのである。

しかし現状肯定派は、決して高くしようとはしない。平気で間引きする社会だ。結局、初めて現れた超才、つまり一人ならば、間引きすることで、映画だろうが野球だろうが大した伝統でもないのに、現状を守ろうとする。中世の時代からそうだった。太陽が地球の周りを回っていた。

『七人の侍』という作品は、野球がどれだけ高く飛ばせるかを競うスポーツであるとして、映画をそれにたとえるならば、ちょうど天井にぶつかってしまった映画である。以後黒澤は、六五年の『赤ひげ』まで何を撮っても、平気でどこのドームの天井にも、工夫した当て方で飛ばせるようなそんな選手になった。そのとき、あるファンは確実に、もしもっと天井が高ければ、一体どのくらいの高さにまで飛ばせるのだろうか。そう考えるはずであり、出来ればそれを観たい、本人だってそう思っていたはずだ。江川卓も、阪急に入団していればまさに黄金時代に突入する年であったし、張本、リー、有藤、土井らパ・リーグの強打者との対決も、観られたはずで、本人だってそう思っていたはずだ。

しかし東宝という黒澤所属の映画会社は黒澤の、製作費も含めたスケールの巨大化に恐怖を抱いた。次に日本の映画界も危機感を抱いた。ハリウッドもこれまた手かせ足かせを準備し、黒澤の映画への可能性に賭ける度量を持っていなかった。「黒澤にだけは自由に撮らせてやってくれ」と言っていた近親者までが一人また一人と離れていった。

『東京オリンピック』を撮っていたならば、どれだけ凄いことになっていたか、『暴走機関車』しかり、『トラ!トラ!トラ!』しかり。

「宇宙人としての行き方」(松井孝典/岩波新書)を読むと、われわれ(人類)は、宇宙を認識するために生まれてきた。人類(宇宙人)が生きているのは、生き延びるためではなく、ビッグバン以来の宇宙の歴史の解読作業を遂行していくためで、「人間圏」をつくって生きていくという(「生き延びる」という視点から見れば)危険な選択は、たとえ滅びようとも、解読の欲望を否定できない。すなわち映画も、より人間を解読していこうとするとき、今ある映画を壊さざるを得ない。

したがって、黒澤の仕掛けた、たとえば『暴走機関車』は、これを映画と呼ぼうものならば、これまで「映画」と呼んでいたもの全てが映画ではなくなる。そんな得体の知れぬものであったはずだ。

『赤ひげ』の公開を終え、五五才で何もかも現状の映画の世界ではやりつくした超才が、以後、あっけなく翼をもぎ取られていく。

イチローはこのことを早くから知っていた。

だからパリーグ時代から巨人批判をチョコチョコしていたが、そしてメジャーリーグ入りしてからはマリナーズ批判までチョコチョコしていたが、自分と日本プロ野球とのどっちをとるかを、王貞治という世界的な男(しかも3が無かった)を分かりやすい素材として隣に置きながら、王監督同様にこれまで自らの不足気味だった3について、突破を図ったのだ。

1を満たす人間は多くの有名人ならば、まずもって満たしている。問題は2で、これは時間もかかるし、できない人間には永遠に出来ないから、これを獲得した王やイチローや古田やノムさんは、この2も無いくせに3を持っている、たとえば長嶋茂雄の様な人物を激しく嫉妬し、また認め愛してもいる。だからそれを倒す以上に、水かrがその3をも獲得して凌駕していくしかない。それは不可能に近い。それをイチローは、この大会を通じて、成し遂げた。

オレにはそう見えた。

天晴れだ。

そのことだけは書き留めておかずにはいられなかった。

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2006年3月17日 (金)

メキシコ対アメリカ

自分のコメントがどう使われているのか気になって、朝、「スーパーモーニング」のチャンネルをつけたら、いきなり、義田貴士じゃないか。(昨日のブログ「WBCメキシコ戦」参照)

なんなのよ。

相変わらず偉そうに、神(イチロー)の声を下々に通訳して届けるみたいなスタンスで、高いトーンで語っていた。(Vシネマの中堅俳優)石橋保みたいな中途半端な二枚目の顔で、お前は、イチローの影武者でもコピーロボットでもないだろうに。 

と、今これを書いている最中に、なんとメキシコが2-1でアメリカに勝ったって。

西岡のタッチアップをアウトにした、またあの審判(マグワイアの66号をフイにしたボビー)が、本塁打を二塁打にしたって!

やってますなあ。

それほどまでにメジャーの格の違いを結果的に見せたいのか。

アメリカ人はパリがテキサス州にあるとか、そんな感覚で生きてるらしいから、メキシコなんて植民地だと思ってるのかしら。

それはそれとして、義田貴士だ。

大谷明宏「イチローは普段はクールに見えるのに、日の丸を背負って、あれほどに熱くなるとは思いませんでしたが・・・」

義田貴士「それは、イチローは、“日本人”ですから」

お前はナンなのよ。

張本勲はどうなのよ。

勘弁してくれよ。

何が日本人で、何が日本人でないかの基準があるのかよ。

オリックス在籍時でさえ、(例えリーグが違うとはいえ、現役の選手が)地元名古屋の中日の試合を応援に行っていた、というから、変わっている。

巨人の野球について、日本シリーズで、「ああいうチームが勝つという状態は良くない」と正しく批判していた。

『古畑任三郎』では、松嶋菜々子の回などよりもずっとましな演技をしていた。合格点などというレベルを超えていた。しかし、そうはいっても、もちろん、メジャーの現役選手という事を知らずに、あのドラマを見て楽しめるものではない。内容も実在選手という設定を巧みに生かしていたのはもちろんだ。その事を当たり前として認めたうえで、野球選手としてだけではない器用さも彼にはある。大したものだ。

思わせぶりなところは、貫禄がなく、メジャー1年目に憧れの選手に会うたびに、記念品やサインをもらったりしてはしゃいでいたミーハーぶりは、そう簡単には。オレの目からは取り消せない。それでも、何とか、それなりにオレの目ぐらいは誤魔化すだけのものはある。

だけど義田貴士だ。あれを使いこなしているうちは、ダメだ。結局は影武者化してしまう。

そのイチローの、またしても韓国戦。そしてもしかしたらのボビー審判。

18日(日本時間は14時間後だから19日)が待ち遠しい。

アメリカはやる気があるのだろうか。

1次リーグでカナダに負け、日本に疑惑の勝ちで、韓国に負け、更にもう見込みの消えたメキシコに負け、どうでもいいんだろうな。

イチローにその辺のところを聞きたい。

「国の象徴的スポーツだという意識はあると思うんですけど、とイチローさんは言うと思います」って。

お前に聞いてるんじゃないよ。

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WBC韓国戦

昨日、日韓戦を見ていたら、電話が入って、コメントをしてくれ、という。

テレビ朝日「スーパー・モーニング」という番組だ。

ちょっと気持ちが入っていたので、「今、TBSを見てる。野球が終わってからにしてくれ」。それで夜、さっさと夕飯を食べてから、いそいそと出かけた。

「タクシーで六本木の本社まで来てください。帰りもハイヤーを用意してます」「埼玉ですから長距離ですよ」「構いません」。

随分とテレビ局は金があるなとは思ったが、性分に合わないので、電車で行った。かえって電車代を損した結果だが、まあいい。

前にもテレ朝には出たことがあるが、四谷のスタジオだった。もちろん電車で行った。

こちらとしてはなるべく、そういう相手の「他人や会社の金を使うのは平気」というペースに巻き込まれたくない。

オレもかつては会社勤めをしていた時期がある。得意先の人と会うのに、安い喫茶店でコーヒーなんか飲むと、自分で払えと言われ、少々金額の張るところで食事なんかすると、経費として落ちる。変な仕組みだとは思ったが、だからといって、食事ばかりしていては、それはおかしいだろう。

で、日韓戦。

負けると思ったよ。

日本の若手と、韓国の若手との「気持ち」の差だ。

ガムなんかを食っちゃべって、岩村とか今江とか藤川とか、「いつものノリ」「普段着の野球」みたいなことを考えていたのだろう。「楽しみたい」というオリンピック選手。ワールドカップ予選で君が代を半分は歌わない。星条旗は、ジミヘンが弾いてもかっこいいけど、君が代は、清志郎が歌ったところで、あんまりいい歌じゃないもんな。

アメリカがそういう「やる気のなさ」でもって、この大会を相手にしていないのは分かる、だけど、日本はそういうノリを見せたいわりには、一方で、国の威信みたいなことを迫る(特にイチローは日本の上に「大」が付く昔の時代の人のように)、暗黙の圧力が見え隠れもする。

韓国は「大」韓民国だから、シルミドの国だから、そりゃア、違いまっせ。

それに比べての日本の若い連中の軽さ。

松井秀喜や井口は、米国内での雰囲気(このWBCという大会に対しての熱の冷め方)を感じ取って、やる気が起きなかったと思うし、そのことまで配慮できる王監督は、自身だって、もしかしたらかつて大リーグを目指したかもしれないという想像力と共に、物分りの良さが、松井参加への説得を鈍らせてもいたろう。

六人のメジャーリーグのうち、六人が出場した韓国。

十五人のうち、二人の日本。しかし、まあ、十五人といっても、野茂や藪など、むしろ使えない。日本の主戦級のほうがずっと代表にふさわしく、この十五人云々は、また別の話だ。唯一言えるのは松井秀喜だけなのだ。

松井を本気にさせない日本が負けた。ただそれだけだ。

どうすれば勝てるか。松井が出れば勝てる。どうすれば松井が出るのか。米国を本気にさせれば松井は出る。どうすればアメリカが本気になるのか。

次の準決勝で、今度こそ韓国が勝てばいい。

アメリカは、まだ舐めきっていて、メキシコ戦は当然勝つだろうし、準決勝での韓国戦で大勝して、「こんなもんだよ、俺たちがちょっと力を出せば」という事で片をつけようとしている。

それじゃあダメだ。

韓国戦の9回裏、代打で新井(広島)が登場した。おいおい。一発狙いかよ。切腹かよ。

高校野球の最後の控えの三年生じゃないんだよ。或いは翌年の四番候補の二年生じゃないんだよ。何だかすげえなと思ったよ。王監督もそこまで大仰なことやるんだったら、そして最後に「屈辱」と言い切って叫んだイチローだったのなら、やはり本気モードを作るべきだった。韓国のほうが、今のメジャーリーグへの適応や研究が進んでいるという見方もある。外角球に対する審判の判定や少し大きいボールへの慣れなど。

だけど、その程度で負けるのかよ。違うだろ。

アテネオリンピックでも、日本代表はオーストラリア代表で出た阪神のウイリアムスにひねられた。

追い詰められて、手もなくひねられる。最後まで「楽しんで」笑われるのならまだしも、新井、多村と妙な最後だけの本気モード、一発狙い、大振り、切腹一直線の連続三振。

笑えも出来なきゃア、天晴れとも言えない最期だけの大振り。かえって潔くない潔さ。

日本シリーズでの連続安打記録男・今江や真っ直ぐ一本の藤川は、打たれ、或いはエラーをしたことの影響だろうけど、試合後の沈んだ無言歩行。

おいおいおい。かつて日本(中日)で悩んでハゲになったリ・ジョンボムが、三十五歳でなお溌剌のびのびと三塁を狙ってタッチアウトになる。これだよな。

次々と一線級のピッチャーを惜しげもなく代えてくる(かつて中日の)ソン・ドンヨル。これだよな。

高校野球で全国制覇した駒大苫小牧がまだ知られる前に、北海道地区は、ノンプロ野球で「大昭和製紙白老」チームが全国優勝するなどいつも好成績を挙げていた。その理由は、補強選手の、電電北海道の(のちヤクルトの監督も務める「小さな大打者」)若松勉や新日鉄室蘭の竹本由紀夫などが、大活躍をしたからだ。一丸となって北海道チームが本州のチーム相手に戦う。この意気込みの差が、確かにあった。韓国にも同様の凄みが感じられた。

もちろんまだ日本のプロ野球のほうが韓国野球よりも実力は上だと思うけど、ここ一番に勝てない。キューバを見ろ、といいたい。

せめてアメリカ対韓国は、テレビ中継しろ。そして韓国が勝ってアメリカを本気にさせろ。

ワールドカップみたいに、メジャーリーグの開幕を、WBC期間だけ遅らせろ。そして四年に一回にしろ。クリス・カーペンターやシリングが2イニングごとに交代で出てくるくらいの米国チームとがっぷり四つに組んで闘う試合を見たい。 その頃は松坂ではなく、ダルビッシュ有や現・駒大苫小牧の田中が日本を背負っているはずだ。

早くその日が来るためにも、韓国よ、必ず勝て!!

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2006年3月16日 (木)

WBCメキシコ戦

それにしても義田貴士である。

オレのワードは「よしだたかし」とキーを叩くと義田貴士と出る。普通は吉田隆とか、そういったありきたりな文字が出るはずだけれど、いつの間にか、パソコンにその名前を覚えさせてしまった。

嫌だ、嫌だ。

何が嫌なのかって言ったって、イチローである。

義田貴士という男は、そのイチローの取り巻きのひとりで、スポーツジャーナリストという事になっているが、今のところ(イチローにとって)利用し甲斐のあるやつという程度の「宣伝屋」だ。

スポーツであれ、その他のタレントであれ、少々の有名人となった者は、自分について、厳しい意見を言う者を寄せ付けることなく生きていくことが出来る。俳優なら、「あなたの演技はまだ甘い」とか、もう誰にもいわれずに済む。もっとも、意見を言われたところで、「天才」といわれる部類は、的外れな意見が災いして、気分が悪くなるだけのことも多いのだろう事は予測が付く。それはそれでいいけれど、逆に、気分を良くするだけの「おだて屋」におだてられるだけでは、よほどの人間でもない限りは、威張ることが自然になるし、「俺様」になることが当たり前になる。

たけし軍団を率いるビートたけしなどは、その点、ボディーガードに徹しさせていて、少々気分をよくすることを言われたところで、クソの自信にもつながらないような連中を従えて、裸の王様になるのを上手く避けている。

しかし、イチローは、この義田を義田と知りつつ、案外ボディーガード以上の利用の仕方をしている。持ちつ持たれつはいいけれど、そこで酌み交わされている約束事を世間に撒き散らすのはやめて欲しい。

長嶋茂雄の息子や娘という事で、本来もっと有能なスポーツ解説者がいても、その人材を差し置いて美奈や一茂が起用されるように、イチローの側近者として義田貴士は抜擢される。某映画監督に取り付く某映画応援者(肩書きは映画評論家)や、大スターと同じ事務所のプチスターなど、寄らば大樹の陰、核の傘、虎の威を藉る狐。毒にも薬にもならない「おだて屋」は必ずいる。いてもいいが、そして自分が捨てられてもいいし、逆にその取り巻く有名人を潰してもいいのだが、その「おだて」関係をメディアや世間に持ち込むのは勘弁してもらいたい。側近だけが聴くことの出来る楽屋話を面白がって聞くというのは、特権階級をありがたがるファンであって、スポーツに魅せられる鑑賞狂(たとえばオレ)というものは本来、そういう話は聞きたくもない。

義田の行為は、ファンというものを(イチロー、いや有名人が好きな)自分と同じ存在でしかないのだと誤解をしている、もしくはバカにしているに過ぎない。

去年の正月にデザイナーをしている立派な人の家に呼ばれた。会社を立ち上げるとかいうその出陣式の様なパーティーだったのだが、そこにはオレのほかにやはり、デザイナー(その家の主の弟子たち)が何人か来ていて、そこで野球の話になった。まあ、オレは部外者だったから、ただ聞いていただけだが、ちょっと聞いていられないようなレベルの話だった。

オレは、そのデザイナーは好きだが、それは彼のセンスがいいとか服が好きだからという理由ではない。彼の人柄が好きなのだ。本当に立派な人だ。だけど、言っちゃあ悪いが、彼のものを見る眼、特にスポーツなどに関しての目は、センスが良くないとしかいえない。

その弟子筋のセンスはといったら、これはもう箸にも棒にもかからない、という印象でしかない。

その場で、その弟子の一人から出た話は、「清原和博よりもイチローのほうが偉い」という話だった。なんとも義田な、いやはやもう・・・。

その理由はと聞けば、そこらじゅうでよく聞く話だ。あえてここに書くまでもなかろう。義田に聞いてくれ。

それは好き嫌いの問題だ。器用なイチロー、不器用な清原和博。

器用なのはいいけれど、義田貴士の使い方はナンなのだ。嫌らし過ぎはしまいか。

昨日のテレビ朝日のメキシコ戦。ふざけるんじゃあないよ。

まず解説の栗山英樹。(自分の現役時代が)並み以下のプレーヤーだったからって、卑屈な解説しかしない。大学でスポーツ工学か何かを学んでその点ではちょっとした専門家だという事でテレビに出ているのかもしれないが、しゃべくりの歯切れが悪い。義田貴士と同じで、いかにそのプレーヤーがすごいか(それは一般人よりすごいのか、平凡なプレーヤーよりすごいのかがはっきりしない)をかたるだけだ。

NHK・BSで大リーグの解説をしていた江藤省三も、殆ど大リーグに興味なく過ごしつつ「今日は解説の日か」といった調子でやってくるほどの酷さだけれども、栗山は逆に意気込んでくるのはいいけれど、野球の少々でたらめなオモシロさについての眼も持てよ、と言いたい。

野村克也の野村スコープぐらいに人間味が出るのならまだしも、詰まんない意気込み論みたいなものを交えて、昨日も福留の暴走(多分、今は調子が悪いから福留のアンテナの感度も狂っているのだろう)を、「チームの前へ前へ」という気持ちに結び付けてほめていた。何とでも言えるじゃないか。感度が狂っているのが分からないもんかねえ。或いは言えないもんかねえ。

そして義田貴士。こいつはナンなのよ。

王監督を見たい。彼の一挙手一投足を見たい。WBCは、だから見るようなものダ。

第1戦の読売の日本びいきなだけのでかい声。読売を「日本チーム」に変えただけの放送。米国は阪神か??って、まるでタカ&トシ(北海道出身の藤本敦士似)のネタか??

松井秀喜が、王監督なだけに出場したかったけれど、読売なだけに、それ以上に出る気がしなかった、とは、事情通の人から聞いた話だ。

実際、松井は米国内で、この大会がそれほどに人気がないのは知っているだろう。審判だって、(メジャーリーグの)オープン戦があるからという理由で、そっちのほうを優先させて、WBCを拒否したぐらいで、アメリカの新聞のスポーツ面トップは、この時期バスケットボールらしい。

だったら、イチローも拒否して、以下のメンバーで望めばよかったではないか。

1、青木宣親(中堅手・ヤクルト)

2、川崎宗則(遊撃手・ソフトバンク)

3、前田智徳(右翼手・広島)

4、金本知憲(左翼手・阪神タイガース)

5、松中信彦(DH・ソフトバンク)

6、清原和博(一塁手・オリックス)

7、中村紀洋(三塁手・オリックス)

8、今岡誠(二塁手・阪神タイガース)

9、里崎智也(捕手・千葉ロッテ)

投手・松坂大輔(西武)

監督・王貞治(ソフトバンク)

今日の韓国戦はTBSだから、世界の松下(アナウンサー)はうるさいにしても、あんまり変な解説は出てこないだろう。なんてったって、イチローはいるにしても義田が出てこない。

アメリカ戦で誤審がなければ、日本の野球史上「歴史的な1勝になるはずだった」というけれど、ならば、韓国の(アメリカ戦での)勝利は、アジアにとっての歴史的な1勝ではないのか!!そういう報道はひとつもない。しかも放送さえしない。

山本博(アーチェリー五輪メダリスト)がトリノ五輪の期間中にタイでアーチェリーの大会に参加していたが、オリンピックの放送は、全くされていなかったと「スタメン」(フジテレビ)で語っていた。もっともタイはトリノに一人の選手も参加してはいなかったのだが・・・。

義田もイチローの腰巾着ばかりやっているなら、せめて米国対韓国戦、メキシコ対韓国戦の偵察をしてきてTBSで報告しろ、といいたいところだが、それもやっぱり見たくないし、聴きたくない。

「イチローに関しては、韓国の選手もみな尊敬しているみたいで、さすが日本の、いや世界の宝だと思いました」みたいなお経はもう聞きたくない。

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