ちびまるこちゃん
昨日(日曜日)、「ちびまるこちゃん」を見た。
二話あるうちの第一話が「お姉ちゃん、鍋奉行になる」とかいう題だった。
ちびまるこの姉が、金持ちの友達の家で、牛のしゃぶしゃぶを食べてきて、それが普段、自分のうちで食べている、安物の、ありあわせの鍋とは違って「美味かった」。だから、その味を家族の皆にも味わわせてやりたい。それで、鍋奉行(鍋料理を食べるとき、あれこれと薀蓄を語り指図する人)となって、偉そうに、くだらない能書きをたれるのである。
中流家族である(とされる)まるこの家の面々は、この姉の所作を初めは微笑ましく見ていたものの、度が過ぎるとあって、だんだんと辟易してくる。「ネギは5センチ幅に切る。野菜は一気に入れない。水加減も徐々に足し、肉と白滝はくっつけない」などなど。さらに、なれないゆえか、微妙に失敗をしてもなお意地を張って、挙句の果ては肝心のご飯を炊き忘れてしまう。(もともと食べ方の順番や材料のあれこれというレシピなどはどうでもよく、自分にあったやり方を志向してきたまるこの一家は)当然のごとくというか、仕方なくというか、するめを足したり試行錯誤しながら、最後はカップラーメンで腹を満たす。
お姉ちゃんは、「自分のやり方(というよりも金持ちの家で見てきたやり方)」を押し付けたくて、それが上手くいかず、部屋に走っていって、泣いてしまう。妹のまるこは、優しいのか、妹だからなのか、気持ちを汲んで慰める。
オレは、腹が立ったね。
もともと20年前からこの番組は好きではないが、たぶん、今回のこう言うところに凝縮されていると思う。
もともと正統と異端が(議論する側の頭の中に)あって、天皇問題でも、戦争映画でも、高校野球でも、紋切り型の決まりきった見方しか出来ない奴が多くて、それに乗っかって議論するから、もうやりきれない。
鍋奉行の根本問題は何なのか、を突き詰めずに、「本当は皆にも味わわせてやりたかった」姉の優しい気持ちのほうが大事、と落着させる。
そのあつかましい気持ちは、何なのか。不自由極まりないよ。
そこで、事が上手く展開できずに泣く、というお粗末。
まるで、「人間の世界もまた弱肉強食なのだからひとをころしてもいい」と暴言を吐いていた奴が、いきなり倒れて、スタッフに担がれていったジェネジャンの女みたいじゃないか。(1月17日のブログ参照)
『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)という本で、本田靖春は、同様に、能書きをたれる料理人に、「出来るだけ能書きの少ないのをくれ」と一括する。尊敬する先輩記者仕込みで教わった教訓のひとつとして、紹介されているが、彼はテレビの料理番組で、「日本人でよかった」と和風料理を食べる日本人に反発を抱いている。
本田は、韓国生まれで、それだからなのか焼肉が好きで、和物など嫌いだ。焼肉などのこってりした料理ばかり食べたせいか、糖尿病となって、人工透析、片目失明、さらには両足を切断するまでにいたった。
オレも糖尿病で、オレの場合は、胃を全摘したことによる後遺障害(詳しくは、このブログのどこかに書いた)だ。
で、ちびまるこにもどる。まるこの姉の薀蓄に、ネックとなっていることがあって、牛と豚肉を一緒に入れては味が落ちる、というくだりである。牛のほうが高級であり、マルコの家の様な上流とはいえない家庭では、ブタを混ぜるのが普通で、牛だけならば、「明日はおかずなしですよ」と母親に怒られる始末だ。オレの場合は、肉が嫌いだから、特に牛のほうが嫌いだから、その高級感覚がさっぱり実感できないのだが、それに北海道生まれのオレとしては、確か北海道では、ブタを食する習慣が牛よりも普通であって、高級低級以前に、なじみが無い。居酒屋でも、内地では焼き鳥といえば、当然のごとく鶏だろうが、北海道の居酒屋では、ブタ串も同じようにメニューとしてあり、オレなんかは、(当時肉が食えた時代で)盛んにブタ串を食べていた。
まあ、それも何が言いたいのかというと、「お金の掛かっているほうが高級で上手い」という理屈がまずあるという正統思想が見え隠れするのが気に入らないのだ。
オレは公共料金などは、引き落としではなく、必ず自ら払いに行くのだが、妻は、わざわざ一番はジのコンビニで振り込む部分を切って、郵便局で振り込ませようとする。
一度、一日だけ送れたことが会って、それは電話料金で、NTTに問い合わせたら、コンビニで払えばどうってことはない、といわれた。郵便局はどうかと聞いたら、一日でも遅れでは、無理だ。といわれた。さらに、コンビニのほうが24時間オンラインで繋がっており、早く確実だ。郵便局のほうが人の手を介するので、トラブルも多いといわれた。
たしかにそうだ。郵便局では待たされる上に、コンビニのようにバーコードを機械で一発で読み取って、「ハイオワリ」とはならない。何を(作業)しているのか、もたもたと人を待たせるし、機械を通しているようには見えない。
かんぐれば、期日までに間があるものは、一時、郵便局でプールしておいて、期日になったら、まとめてその人たちの分を振り込むという手間隙かけて時間差の作業をしているのではないか、とも思った。企業ならば利潤を追求するのは当たり前だから、裏でそんなことが行われていたとしても、不思議は無い。
だとしたら、コンビニのほうがよい。
オレのアパートでは、入居するときにトラブルがあった。堀川産業というガス会社があって、入居ジに1万円を頂く(出るときに返す)というのだ。理由を聞いたら、払わずに逃げるお客さんがいるからだという。
ふざけるな。そういう人については、自分たちで追いかければいいのであって、他のお客さんに負担をさせるなどおかしいではないか。しかもいったい何万件と契約しているのだ。1万件としたって、1億円の余分な金が入るわけで、預貯金として預けていたって、利息が入るし、何より運用できるではないか。おかしい。そういっても、入居者の皆が、誰一人文句を言わずに払っています。ご理解を下さいという。しかも独占企業で、もしそのアパートでガスを使うのに他のどこかからガスを引きたいといっても、ないのだ。
結局払ったが、これはどう考えてもおかしい。
おかしいのはその企業もそうだが、文句をいw図に払っている人たち全部がおかしい。
で、郵便局なのだが、なぜ妻はコンビニよりも郵便局で払わせたがったのか。営業時間は決められているし、ほかの客の順番待ちで結構かかる。
それはすなわち、親方日の丸のほうが、安心感がある、というブランド・イメージというか、正統・異端の考え方に連なるはずだ。
ところで「だいたひかる」が結婚したそうだ。
「どうでもいいですよ」と彼女のギャグで返していては芸が無いし、なんだか一部、彼女のそれを認めているようでもあり、素直にどうでもよくないと書く。
芸人というのは、異端であり、正統に組み込まれそうになった途端、その雰囲気を察知してその場からすぐに出なければならない。「正統」や「大多数」や「権力」のあつかましさと暴力に対し、もし立ち向かったりしゃれのめそうという芸人であったならばの話であるが。
「だいた」がそういう芸人になれないのは、自分のくだらない喋りが少しでも受けると、一緒に笑ってよろこんでいるからだ。これは1番恥ずかしいことだ。その場でしか受けていないかもしれないし、間違って受けているかもしれないし、それより何より、この程度のオレの(私の)芸で、いったい何を笑っているんでエ! という「白け」が無いのがみっともない。ビートたけしであれ、立川談志であれ、少なくとも、この姿勢だけはイツまでも持っている。
もっと嫌なのは、「もし受けなくても」責任を取らないですむギャグ、と言う部類であるからだ。これは、いくつかの芸人に見られるもので、俳優でも、この大博打が失敗すれば、その俳優の責任になる芝居と、「いや、彼の責任ではなく、監督の演出やその他が悪かったのだ、彼は頑張った」といわれるような役回りでしかない場合とがある。
これでは駄目だ。
そういう意味では、品川庄司というコンビの漫才が1番嫌いではあるが、だいたの巧妙さは、しかし、自分自身の計算がない分だけ余計に眼に余るものがる。
猫ひろしとか、ダンディ坂野とか、「受けなければ、恥ずかし目を味わう」という最低限のモラルというか、お役目を全うしている潔さがある。
「ちびまるこ」と同じ日に見た「しゃべり場」では、「ブスはなぜ相手にされないのか」というテーマでやっていた。そんあのは、世が世なら、小野小町も卒塔婆小町だ、というような話ではないか。昔のテレビ番組で、日本の女優の写真を見せて誰がいいかを判断させたら、アフリカの部族では清川虹子が人気があって、(文明国の都市部で圧倒的人気のあった)浅丘ルリ子はさっぱりだった、という。佐藤忠男という映画評論家が「原節子の顔が、意外にも海外では美人と見られていない」と書いた記事の中で、読んだのだが、しゃべり場の発言者が、「もっとちやほやされてもいい人がいるのに、誰も振り向かない」といって泣いていたが、大きなお世話だ。そいつがちやほやされる場所では、こんどは、「あの人のほうが美人だと思うのだが、ちやほやされない」という別の人の嘆きに変わるのだ。「浅丘ルリ子のほうが綺麗なのに」というようなものだ。
ここまで読んできて、内容が飛び飛びで、変だと思う人がいるかも知れないが、テーマは一貫しているはずだ。
あえて、まとめない。
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