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2006年1月31日 (火)

ちびまるこちゃん

昨日(日曜日)、「ちびまるこちゃん」を見た。

二話あるうちの第一話が「お姉ちゃん、鍋奉行になる」とかいう題だった。

ちびまるこの姉が、金持ちの友達の家で、牛のしゃぶしゃぶを食べてきて、それが普段、自分のうちで食べている、安物の、ありあわせの鍋とは違って「美味かった」。だから、その味を家族の皆にも味わわせてやりたい。それで、鍋奉行(鍋料理を食べるとき、あれこれと薀蓄を語り指図する人)となって、偉そうに、くだらない能書きをたれるのである。

中流家族である(とされる)まるこの家の面々は、この姉の所作を初めは微笑ましく見ていたものの、度が過ぎるとあって、だんだんと辟易してくる。「ネギは5センチ幅に切る。野菜は一気に入れない。水加減も徐々に足し、肉と白滝はくっつけない」などなど。さらに、なれないゆえか、微妙に失敗をしてもなお意地を張って、挙句の果ては肝心のご飯を炊き忘れてしまう。(もともと食べ方の順番や材料のあれこれというレシピなどはどうでもよく、自分にあったやり方を志向してきたまるこの一家は)当然のごとくというか、仕方なくというか、するめを足したり試行錯誤しながら、最後はカップラーメンで腹を満たす。

お姉ちゃんは、「自分のやり方(というよりも金持ちの家で見てきたやり方)」を押し付けたくて、それが上手くいかず、部屋に走っていって、泣いてしまう。妹のまるこは、優しいのか、妹だからなのか、気持ちを汲んで慰める。

オレは、腹が立ったね。

もともと20年前からこの番組は好きではないが、たぶん、今回のこう言うところに凝縮されていると思う。

もともと正統と異端が(議論する側の頭の中に)あって、天皇問題でも、戦争映画でも、高校野球でも、紋切り型の決まりきった見方しか出来ない奴が多くて、それに乗っかって議論するから、もうやりきれない。

鍋奉行の根本問題は何なのか、を突き詰めずに、「本当は皆にも味わわせてやりたかった」姉の優しい気持ちのほうが大事、と落着させる。

そのあつかましい気持ちは、何なのか。不自由極まりないよ。

そこで、事が上手く展開できずに泣く、というお粗末。

まるで、「人間の世界もまた弱肉強食なのだからひとをころしてもいい」と暴言を吐いていた奴が、いきなり倒れて、スタッフに担がれていったジェネジャンの女みたいじゃないか。(1月17日のブログ参照)

『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)という本で、本田靖春は、同様に、能書きをたれる料理人に、「出来るだけ能書きの少ないのをくれ」と一括する。尊敬する先輩記者仕込みで教わった教訓のひとつとして、紹介されているが、彼はテレビの料理番組で、「日本人でよかった」と和風料理を食べる日本人に反発を抱いている。

本田は、韓国生まれで、それだからなのか焼肉が好きで、和物など嫌いだ。焼肉などのこってりした料理ばかり食べたせいか、糖尿病となって、人工透析、片目失明、さらには両足を切断するまでにいたった。

オレも糖尿病で、オレの場合は、胃を全摘したことによる後遺障害(詳しくは、このブログのどこかに書いた)だ。

で、ちびまるこにもどる。まるこの姉の薀蓄に、ネックとなっていることがあって、牛と豚肉を一緒に入れては味が落ちる、というくだりである。牛のほうが高級であり、マルコの家の様な上流とはいえない家庭では、ブタを混ぜるのが普通で、牛だけならば、「明日はおかずなしですよ」と母親に怒られる始末だ。オレの場合は、肉が嫌いだから、特に牛のほうが嫌いだから、その高級感覚がさっぱり実感できないのだが、それに北海道生まれのオレとしては、確か北海道では、ブタを食する習慣が牛よりも普通であって、高級低級以前に、なじみが無い。居酒屋でも、内地では焼き鳥といえば、当然のごとく鶏だろうが、北海道の居酒屋では、ブタ串も同じようにメニューとしてあり、オレなんかは、(当時肉が食えた時代で)盛んにブタ串を食べていた。

まあ、それも何が言いたいのかというと、「お金の掛かっているほうが高級で上手い」という理屈がまずあるという正統思想が見え隠れするのが気に入らないのだ。

オレは公共料金などは、引き落としではなく、必ず自ら払いに行くのだが、妻は、わざわざ一番はジのコンビニで振り込む部分を切って、郵便局で振り込ませようとする。

一度、一日だけ送れたことが会って、それは電話料金で、NTTに問い合わせたら、コンビニで払えばどうってことはない、といわれた。郵便局はどうかと聞いたら、一日でも遅れでは、無理だ。といわれた。さらに、コンビニのほうが24時間オンラインで繋がっており、早く確実だ。郵便局のほうが人の手を介するので、トラブルも多いといわれた。

たしかにそうだ。郵便局では待たされる上に、コンビニのようにバーコードを機械で一発で読み取って、「ハイオワリ」とはならない。何を(作業)しているのか、もたもたと人を待たせるし、機械を通しているようには見えない。

かんぐれば、期日までに間があるものは、一時、郵便局でプールしておいて、期日になったら、まとめてその人たちの分を振り込むという手間隙かけて時間差の作業をしているのではないか、とも思った。企業ならば利潤を追求するのは当たり前だから、裏でそんなことが行われていたとしても、不思議は無い。

だとしたら、コンビニのほうがよい。

オレのアパートでは、入居するときにトラブルがあった。堀川産業というガス会社があって、入居ジに1万円を頂く(出るときに返す)というのだ。理由を聞いたら、払わずに逃げるお客さんがいるからだという。

ふざけるな。そういう人については、自分たちで追いかければいいのであって、他のお客さんに負担をさせるなどおかしいではないか。しかもいったい何万件と契約しているのだ。1万件としたって、1億円の余分な金が入るわけで、預貯金として預けていたって、利息が入るし、何より運用できるではないか。おかしい。そういっても、入居者の皆が、誰一人文句を言わずに払っています。ご理解を下さいという。しかも独占企業で、もしそのアパートでガスを使うのに他のどこかからガスを引きたいといっても、ないのだ。

結局払ったが、これはどう考えてもおかしい。

おかしいのはその企業もそうだが、文句をいw図に払っている人たち全部がおかしい。

で、郵便局なのだが、なぜ妻はコンビニよりも郵便局で払わせたがったのか。営業時間は決められているし、ほかの客の順番待ちで結構かかる。

それはすなわち、親方日の丸のほうが、安心感がある、というブランド・イメージというか、正統・異端の考え方に連なるはずだ。

ところで「だいたひかる」が結婚したそうだ。

「どうでもいいですよ」と彼女のギャグで返していては芸が無いし、なんだか一部、彼女のそれを認めているようでもあり、素直にどうでもよくないと書く。

芸人というのは、異端であり、正統に組み込まれそうになった途端、その雰囲気を察知してその場からすぐに出なければならない。「正統」や「大多数」や「権力」のあつかましさと暴力に対し、もし立ち向かったりしゃれのめそうという芸人であったならばの話であるが。

「だいた」がそういう芸人になれないのは、自分のくだらない喋りが少しでも受けると、一緒に笑ってよろこんでいるからだ。これは1番恥ずかしいことだ。その場でしか受けていないかもしれないし、間違って受けているかもしれないし、それより何より、この程度のオレの(私の)芸で、いったい何を笑っているんでエ! という「白け」が無いのがみっともない。ビートたけしであれ、立川談志であれ、少なくとも、この姿勢だけはイツまでも持っている。

もっと嫌なのは、「もし受けなくても」責任を取らないですむギャグ、と言う部類であるからだ。これは、いくつかの芸人に見られるもので、俳優でも、この大博打が失敗すれば、その俳優の責任になる芝居と、「いや、彼の責任ではなく、監督の演出やその他が悪かったのだ、彼は頑張った」といわれるような役回りでしかない場合とがある。

これでは駄目だ。

そういう意味では、品川庄司というコンビの漫才が1番嫌いではあるが、だいたの巧妙さは、しかし、自分自身の計算がない分だけ余計に眼に余るものがる。

猫ひろしとか、ダンディ坂野とか、「受けなければ、恥ずかし目を味わう」という最低限のモラルというか、お役目を全うしている潔さがある。

「ちびまるこ」と同じ日に見た「しゃべり場」では、「ブスはなぜ相手にされないのか」というテーマでやっていた。そんあのは、世が世なら、小野小町も卒塔婆小町だ、というような話ではないか。昔のテレビ番組で、日本の女優の写真を見せて誰がいいかを判断させたら、アフリカの部族では清川虹子が人気があって、(文明国の都市部で圧倒的人気のあった)浅丘ルリ子はさっぱりだった、という。佐藤忠男という映画評論家が「原節子の顔が、意外にも海外では美人と見られていない」と書いた記事の中で、読んだのだが、しゃべり場の発言者が、「もっとちやほやされてもいい人がいるのに、誰も振り向かない」といって泣いていたが、大きなお世話だ。そいつがちやほやされる場所では、こんどは、「あの人のほうが美人だと思うのだが、ちやほやされない」という別の人の嘆きに変わるのだ。「浅丘ルリ子のほうが綺麗なのに」というようなものだ。

ここまで読んできて、内容が飛び飛びで、変だと思う人がいるかも知れないが、テーマは一貫しているはずだ。

あえて、まとめない。

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2006年1月24日 (火)

堀江モン

どっちかといえば、どうでもいいことなのかもしれないが、堀江モンのダンスである。

12月25日の株主総会で涙を流した堀江モンは、その4時間後に、同じ会場で行われたライブドア忘年会、その出来事は起こった。

まあ、変なダンスを披露するのだけれど、その変さは、やはりヤバいと思った。

株主総会で涙を流したのは、株主の一人から、堀江に、「会社と私的な財産との公私混同ではないのか」と質問され、そう思われただけでも悲しい、と悔しがって見せたのである。

平井堅の、というか原題は知らないが、「大きな古時計」とか言う曲のメロディに乗せて、kobaryuとかいう歌手らしき男が、ライブドアの替え歌を歌っていた。

醜くて浅ましいのは勿論だけれど、そこに参加していたその歌手もどきは、堀江逮捕の後、のこのことテレビのインタビューに、第三者みたいなコメントをしていたが、せめて擁護しろよ。それは小泉首相もまたそうだ。男気とはそういうものだろう。

ネルソン・マンデラが釈放されて変な踊りをやっていたが、それはそれでかっこよかった。社会党の委員長に選ばれた土井たか子が、これもディスコを「デスコ」とか言って、若者に迎合した踊りをやっていたが、まあまあ、ぎりぎり許せた。パチンコが趣味とか言って、庶民派を気取るのは、インテリが博打好きで少しでもやくざを気取るのに似て、青年は荒野を目指し、インテリはやくざに憧れる。かっこ悪いことはこの上ないが、しかし許せる。

ところが、堀江のあの踊りは、一線を越えていた。たぶん、振り付けを少しはどこかで練習したのであえろう。後ろの人たちと踊りが合っていた。しかし目指すものが、踊りそのものの歓喜にではなく、余興にしか向かっていかない。つまりは、「踊り」という意味が二次的なのだ。

それは「スーフリ」や「オウム真理教」の集会での偉い人の振る舞いにそっくりであった。そちらの領域に入ってしまっていた。

オレは後戻りできると思っている。

光クラブの山崎晃嗣みたいに、死ぬことはない。糸山英太郎も、今は確か全日空の筆頭株主ではなかったか。三浦和義が無罪となっても世間は、どうでもいいことととして、あのロス疑惑騒動のときのイメージのままである。

世間との対峙を見せてほしい。

堀江を潰したことで国家権力が正常に機能しているとか思ったとしたら、たぶん、寝首をかかれるだろう。現に、広島での刺客候補として祭り上げた小泉は、かかわりを否定しているではないか。

あの踊りはまずかったが、もうあの踊りをやめればいいのである。

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2006年1月18日 (水)

Mの喜劇

1月18日。

昨日、Mの最高裁判決が下りた。もちろん死刑だ。オレと2ヶ月違いの生まれだから、同世代であり、事件当時から注視していた。吉岡忍の『M/世界の、憂鬱な先端』も何度か読み返し、佐木隆三の『宮崎勤裁判』など、随分と読んだけれど、裁判の結果には、後味の悪さが残った。吉岡も佐木も、月刊「創」編集長篠田博之も同じ感想を述べていた。「釈然としない」「あっけない」「なんだか分からない」「はぐらかされた」「ザンネン」

その最大の理由は、「ごめんなさい、僕が悪うござんした」というMの反省と謝罪がないことによる。

これは池田市の小学校を襲って殺害事件を起こし死刑となった宅間守にもいえるし、カレー事件の林真須美にもいえる。

これこそがしかし、被害者や社会を腹立たしくさせ、不愉快にさせている。

昨日も書いたが、これはデジタルに「同情」や「思いやり」「人助け的おせっかい(すなわち任侠)」といったものをしないで済ませて生きて死のうとする連中の想像力を欠いた結果のことだ。

簡単だ。おもちゃを壊すように、幼児を殺す(壊す)。その家族の悲しみをかわいそうとも思わない。騒いでいる社会のほうを「馬鹿だ、くだらない」と切り捨てる。

そういう風に頭の中で理屈づける訓練がなされている。というよりも人に触れる機会(もっといえば人とぶつかってけんかする機会)が少ないから、デジタルな判断が可能となる。

昔、黒澤明監督の『天国と地獄』という映画で、最後に泣いてしまう犯人の山崎努を、オレはこう評したことがある。もし、最後まで笑っていてくれれば、もっと爽快に復讐を果たした結果となっていたはずなのに、と。

この映画での山崎努は、デビュー作でもあり、でかい会社の社長として、山の上の豪邸で、庶民を見下ろすようにして暮らし、ふんぞり返っている三船敏郎(天国)の子を誘拐する。

ところが、誘拐されたほうの三船は、オロオロして醜態をさらすどころか、立派にかっこよく立ち居振舞うのだ。もともと「ただの金持野郎」ではなくて、貧しい育ちからの叩き上げの社長であり、決して山崎が想像するようないやらしい男ではなかったのだ。

結局、捕まった山崎努は、最後に鼻を明かすどころか、三船の理屈に屈服する格好となってしまう。

そういった映画のラストシーンを観て、屈服されてしまうことにオレは不満を抱いていたのだ。せめて見栄を張って笑って死刑にでもなれば、三船は立派だから動じないとしても、その他のくだらない「天国」の連中には少しは震撼たらしめる効果があったのではないか、と。

ところで、宅間守や林真須美やMは、多分、オレと同世代で、似たような感性があったはずだ。

黒沢は男性映画の巨匠として知られていた監督だが、そのライバルと目された女性映画の旗手とされる木下惠介もまた、『破れ太鼓』を撮っている。古臭い家父長制をかさに来て、子供たちに恐怖政治を強いる様な威張った社長が出てくる。『天国と地獄』で誘拐にあうように、この「軍平」という名の時代遅れの戦前頑固親父もまた、子供たちによって、許婚を拒否され、ピアノを弾いてニートを決め込んだり、家を出られたり、様々なしっぺ返しを受ける。しかし、この親父にもいいところがあるのだ、というラストが訪れる。

オレは何だかんだ言って、結局、「最後まで笑っていろ」とか何とか、新しい考え方(個々の自由や、規則の全廃みたいなこと)のひとつのありうべき回答例を、挑発的に示すよりも、「最後に泣いてしまう」ほうを支持することを選んだのだといえる。

戦前の縛りにうんざりした世代が、最後までの闘争をけしかけ、その考え方に乗った中での例外的に出来の悪い例が、Mであったり、宅間だったのではないか。

精神鑑定という作業が、大きな問題のひとつとして浮上しているのだが、そうなってしまっているのは、これらを裁いたり運営したり、批評する中に、やくざがいないからではないかと思う。

渡辺淳一の「ひとひらの雪」に「やくざにしないで」という台詞がでてくる。

鶴見俊輔が「オレはやくざだから」と常々書いている。

その事を問題にしたい。

17年もおしとやかに流れていくのは、そこにやくざな論理が入る余地がないからだ。やくざが関わっていないからだ。小田晋とか、見るからに、おかしい人のほうが、そこでは普通なのだ。

釈然としない理由は、そこにある。

木下も黒沢も、映画人だけに、曲りなりにも、やくざだった。

問題提起だけ書いた。

きょうはこのへんで。

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2006年1月17日 (火)

堀田さん、今年もよろしく

先日「力道山」の試写に呼んでいただいた俳優の堀田眞三さんがブログを始めたというので、少し刺激されました。

それで自分も、不定期に、しかもこれまでの様なしつこい批評は排除して、肩の凝らないものを、書いていこうと思います。

還暦を過ぎて、毎日のようにジョギングして、今なお現役でバリバリとⅤシネマの最強悪役振りを発揮する堀田御大には頭が下がります。

私と同じ10月20日生まれというのも、昔から少し因縁を感じています。

おとといの(田丸美寿々の)「報道特集」を見ていたら、猫の足を切ったり、動物虐待を快楽として楽しむ人間が出ていました。

こういう人間を見て、オレが直感するのは、デジタルに感情を切る人たちです。

インテリといわれる人に多いと思いますが、大体「三丁目の夕日」といったいわゆるホン沸かした映画に過度に目くじらを立てて、水を差そうとする人です。

甘い世間にゆだねた笑いや涙と同調したくない人といいましょうか。

いわゆる任侠系の人たちは、逆に過度に「かわいそう」と反応して、復讐に燃えたりしますが、冷酷に冷静に判断する机の上でメガネをかけて、華奢な体つきで、酒ばかり呑んで(マアこれは私の勝手なイメージなのですが)かつて学生運動で火炎瓶を投げたとか言ってる割には、ちょっと暴走族系のお兄ちゃんが近付いてきたりすると、くるっと向きを変えるタイプの不良中年、(実際テレビ画面ではそんな風の男が「(動物を)1000匹以上は殺したよ」とインタビューに答えていました)が、「かわいそう」というチャンネルのひどく鈍い自分に気づかずに、友人や家族を冷たくあしらうように、(殺しを)やっていると思います。
その前の日、(堂本光一の)「ジェネジャン」を見ていたら、「人を殺してもかまわない、なぜなら動物と同じで弱肉強食だから」と頭のよさそうな(進学校の生徒の様な)十九歳の女が言っていたのですが、討論中に気持ち悪くなって倒れて、番組のスタッフに運ばれていました。

やらせかもしれませんけど、その皮膜一枚の下には、その言葉をはかせる本物の冷酷が見え隠れしていました。ああいう発言は、デジタルに感情を切れば可能です。
弱肉強食なら、(テレビのスタジオで倒れても)そこでそのままの状態であり、運ばれることはないのですが、つまり野垂れ死ぬわけですが、そうはならない。

何か矛盾を感じます。

甘ったれているのではないか。

そのまま放って置けばよかったのに、と思います。

ペドロに問いつめられた「ふかわりょう」。

「お前、友達だとか、死んでも忘れないとか言っていて、葬式にも来なかったじゃないか。葬儀場に行ったら、宇梶さんが花を出してくれていたのを発見して、ああ、この人はそういう人かと思ったけど、お前はいったい(亡くなった彼の)本を読んだのかよ」

そう問われたのだけれど、なみだ目で、あなたのほうが死んだ人を利用している、と反撃していた。

せめて「今日読みます」ぐらいのことは言えなかったものか。

そして、たった今でもいいけれど、「ふかわりょう」、実際読んだのかよ?

まだ読んでいないと思いますね。

それぐらいのもんですよ、人間というのは。

堀田さんのブログは以下をクリック。

http://blogs.yahoo.co.jp/
hottashinzo/MYBLOG/yblog.html

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